クリは散歩には行きたがり、公園に近付くと喜んで吠えたりするのだけど、何しろ食が細くなり、「あれ、イヤ」「これ、イヤ」が多くなった。
歯が悪くなったせいもあってか、ドライフードは受け付けなくなり、それに困って2月初旬に半生タイプのフードをあげてみたら、よく食べたので一安心。と思いきや、今はそれも飲み込むのが難儀のようで、食べるものが限られて来た。
もしかしたら口腔内、あるいは咽喉部にメラノーマの転移があるのかもしれない。肝臓周辺にある腫瘍が悪さをしているのか……。
半生タイプのフードもさまざまな種類を買い求めては食べてくれずに余らせ、缶詰やレトルトフードもいろいろなものを買っては与え、惨敗し、キッチンがフード見本市のようになってしまった。
まったく食べたくないのかといえば、そうではなくて、試しにあげた歯触りがやさしい人間の乳幼児向けのビスケットは喜んで食べ、薄切りハムタイプの犬のおやつやレバー系のおやつは好んで食べる。あまりあれこれ食べさせると軟便がひどくなるし、でも、食べたもらいたいしで、毎日悪戦苦闘である。
牛肉や上質なササミを奮発し、食べてくれてほっとしたかと思えば、翌日は「いらない」と言う。1日や2日食べなくても死にはしないが、何しろ腫瘍持ちだし、何とか体力、筋力はこれ以上減退させずに維持してやりたいと思う。
ドッグホリスティックカウンセラーの講習で学んだ代謝カロリー計算からしても、年齢や生活習慣を考慮しても、もう少し食べてくれないと困る。あんなに食い意地が張っていたクリの食べる量が極端に減り、嗜好が一変してしまったのだもの、オロオロだ。開けても食べない缶詰が冷蔵庫に4缶もあれば、こちらも辛くなる。
「今日はあれを食べた」「これくらい食べられた」「昨日はこれを食べたのに、今日はなぜこれを食べないの?」と一喜一憂する日々。
妹に「乳幼児が食べる“マンナ”や“アンパンマンビスケット”は喜んで食べるのよ」と言うと、「あれもダメ、これもダメというときに、そんなものでも食べてくれたら、飼い主は嬉しいよね」と言ってくれた。今の私には、なんと労りのある言葉だろう。彼女の言葉に思わずシクシク泣いた。だって、その通りなんだもの。今では日帰り取材の時にもクリの様子を見てくれる彼女はクリの状況を心配してくれている。
そして、そして、余ったまま残っているドライフードや半生タイプのやり場に困っていたら、トチを可愛がってくれていた時代小説家の赤木さんのうちでもらってくれるという。アイムスやケイナイントリビュートなどのドライフードも、「これなら食べやすいかも」と思って買ったリモナイトや小型犬用のプッチーヌなどの半生タイプ、ヒルズの缶詰などなど、余ってしまって困っていたフードをみんな、赤木さんのうちにいるミックス犬のウーチャンとチャチャが食べてくれることになったのだ。
赤木夫人に「いいわよ、うちの子たちは何でも食べるから。かえって悪いくらいよ」と言われ、本当に有難いと思った。捨ててしまうのは忍びないもの。余っていたのはシニア犬用のフードだけではないし、ウーチャンとチャチャも6、7歳になっているはずだからシニアフードが混ざっていてもそれほど問題はないと思う。
そんなことはどうでもいいのよというように「大丈夫? 体を大切にしてくださいよ」という夫人の言葉に本当に心がこもっていたので、電話を切ってまたひとりシクシク泣いたのだった。早速今日、きちんと梱包してたくさんのドッグフードを発送した。もらってくれて有難うございました。
クリには「着たままねんね」の胴着を着せたまま散歩に行き、足がもつれたり、転びそうになるたびに素早く取っ手をつかんで、事前に転ぶのを防いでいるのだが、その胴着がほかの人には珍しく映るらしい。
近所のおじさんに「それはバッグで作ったのか」と聞かれた。バッグの持ち手を利用した手作り品だと思ったらしい。
「違うますよ、こういうのがちゃんと売っているんです」というと、おじさんは「ほう~」と感心していた。
昨日はマンションの前の事業所の男の人が、胴着の取っ手を支えている私に「生きたハンドバッグだね」だって。思わず爆笑してしまった。うまいことを言うなあ、まさに大切な宝物を包み込んだ、生きたハンドバッグだ。
クリの後肢はくにゃくにゃである。神経が圧迫され、足を踏ん張ったり、きちんと歩いたりする信号が脳から伝達されないのか、伝わってもそれが脳に伝達されないのか、分からないけれど、いわゆる脊髄神経の障害によって、たびたびナックリング歩行が見られるようになった。
長く立っていられず、人の正座のような妙ちくりんな格好で座りこんでしまうことがある。
不自然な格好で腱を痛めるのはよろしくないので、こういうときは、すぐに正しい足位置に戻してやっています。ナックリングするので、前肢の爪も後肢の爪も変なところが削れるし、頻繁によろけたり、つまずいたりするので、クリにも歩行介助ベストが必要になり、ブナより小さいサイズを購入したのだった。
1月の下旬、散歩中に左後肢を砂利道に引っ掛けて爪を割り、ひどく出血したことがあった。爪の中の血管を傷つけるとけっこう出血し、なかなか止まらないものだ。そのときクイックストップも持っていなかったので、車に戻ってすぐにウエットティッシュで拭き、圧迫止血を試みたのだけど、なかなか血が止まらない。
ステロイドを飲ませているので免疫力が低下しているだろうから、何が怖いって傷の化膿が怖い。おまけに血液凝固防止剤を注射しているから、大きな出血は怖い。まあ、爪の出血くらいなら問題はないだろうけど、化膿させたら大変だ。
帰りにドラッグストアで消毒ガーゼを買い求め、すぐに患部を消毒し、帰宅して慌ててクイックストップで止血した。一度血は止まったけれど、爪は随分割れていて、翌日もちょっと外を歩かせたら出血したので、家に引き返したのだった。
せっかく少ししっかり歩く生活を取り戻してきたのに、これで歩かせないでいると早くに歩けなくなってしまう。それは避けたいと思ったので、足を保護する方法を考えた結果、靴を履かせることを思い付き、さっそく買いに行ったのだった。
ちょうど実家に行く用があったので、兄嫁さんにそのことを話すと、近くで売っているペットショップを探してくれ、帰りに東京ミッドタウンの中にあるペットショップでドッグブーツを買った。サイズはXlで1足(2個)で3,400円程度。
クリの足に合わせてネオプレン部分をカットして丈を調節。着用させたらイヤがりもせず、誠に調子いい。傷を保護することができて、散歩もこなせ、傷が治るまでとても重宝したのでした。
それから散歩用のリュックサックには消毒ガーゼ、クイックストップ、ドッグブーツが常備されるようになりました。
振り返ってみると、ブナが眼を患い、徘徊がひどくなるに伴ってクリの下痢や嘔吐が続いたので、ブナの状態がクリにも負担になっていたのだろうと思われた。
寝ているのに目の見えないブナに踏みつけられ、糞尿の館の隅で自分は踏まないようにじっとしているなど、クリだってブナの変化を受け入れるのに頑張っていただろうと思う。
ブナが亡くなってから徐々にクリの食欲が落ち、その週末に酒井先生に診せたときには、クリはずっと立っていることができず、伏せをしたままだったのだ。先生が触診すると、肝臓の周辺に何かまた腫れ物があり、私はまたしても頭を殴られる思いをしたのでした。
そのせいで胃が圧迫されて吐いたり、食欲が落ちた可能性もある。そうか、精神的なものだけではなかったのか。歯が悪く、固いフードは拒否するので、レトルトや缶詰に変えると下痢をするし、試行錯誤の毎日だった。
腫れはリンパ腫の疑いも捨てきれないという。リンパ腫は良性ということはないので、つまり悪性リンパ腫ということになり、先生と今後の治療の方法を検討した結果、リンパ腫ならステロイドの投与で小さくなる可能性があるので、取りあえずステロイドを注射することになった。
腫瘍がある周辺は血管が圧迫され、血栓症を引き起こしやすいので、血栓症予防も必要であることから、今後は私が血液凝固阻止剤を皮下に注射することになった。
太い注射針で薬剤をシリンジに注入し、細い注射針
に変え、クリの皮下に打ってやる。針もシリンジも
当然使い捨て。医療廃棄物として先生に渡している
ステロイドの副作用として免疫力の低下が挙げられるため、いろいろ気を使わなくてはいけないのだけど、取りあえずステロイドの効用として椎間板ヘルニアや骨棘による神経圧迫からくる痛みは多少軽減でき、食欲も促進されるという。痛みもなく歩け、食欲があれば、元気は取り戻せる。
けれど、ステロイドの投与によって肝臓周辺の腫れ物が小さくなることはなかった。悪性リンパ腫ではないかもしれないけれど、腫れ物は変わりなくあるわけで、当初は毎日3錠飲ませていたプレドニン(ステロイド)を今は一日置きに1錠半飲ませている。
幸いここ2年以上、クリはてんかんの発作を起こしていないので、抗てんかん薬をを1日2錠(最初は4錠から始まり、数年前に3錠に減らせた)にできたことは、唯一明るい話題です。
そして、夜には私が血栓症予防薬を皮下(狂犬病予防接種で先生が多が注射打つ部位、首筋辺り)に注射をしてやっている。その辺りが一番痛くないらしいのだ。深酒をして手元が狂うと危ないので、皮下注射を終えるまで晩酌もほどほどにしているのであります。
昨年5月に右ほほのメラノーマ切除手術を受けたあと、7月くらいからクリの右目の上がへこんできた。酒井先生も「ん? 何かへこんでいるような……」と言う。
そのうちにどんどんへこんできて、今では右目が落ち窪み、眼球があさっての方向に引っ張られてしまっている。普通にしていると白目しか見えなくない時がある。
人が見たら、かなり怖いかもしれない。毛が生えない温泉まんじゅうをくっつけ、片目がへこんで白目だなんて、なんという見てくれになってしまったのだろう!
メラノーマの手術の際に三叉神経のうち、どれかが傷ついたのではあるまいか。この辺りの筋肉を司る神経が切れれば、筋肉が動かず退化(?)していくことになる。だから、へっこんできたのでしょう。
へこむだけで他に支障がないのならいいのだけど、目が窪んで眼球があっちを向いてしまい、溜まった涙が眼やにとなり、視野が狭くなっているというのでは、クリがあんまり可哀想じゃないですか。
クリは眼やにがうっとうしいらしく、よく前肢で右目を拭うようなかっこうをするけれど、それ以外は憂鬱そうにするわけでもなく健気に暮らしている。
今までは私の左側を脚側歩行させていた。つまり私がクリの右側を歩くわけです。でもクリは右目の視野が狭くなってしまい、私が見えにくくなったようなので、公園で自由に歩かせるときも、なるべくクリの視野に入るようにしてあげている。クリちゃん、頑張れ!
昨年初頭にクリの右首根っこに見つけたパチンコ玉大のしこりは、11月半ばに約3センチほどになり、あれよあれよという間に大きくなってしまった。温泉まんじゅうのような大きさだった。
酒井先生も私も多分よろしくないものだろうと思い、どう向き合っていくかを考えていたのだけど、悪性腫瘍にしても抗癌剤治療はしないのであれば、リスクを冒して細胞を採取して、この腫瘍が何かを検査する必要はないのではないかというのが先生の意見だった。
リスクというのは局所麻酔をすること、そして太い針が付いた器具で肉片を採取するため出血する可能性があるということだ。一度、細い針で注射器で細胞を採取したのだけど、そんな少量では正確な診断が付かなかったのだ。右ほほにできたメラノーマかもしれないし、別の組織も見られる程度では経過観察しかしようがない。
局所麻酔をして細胞を採取するかについて、先生は「飼い主さん次第」だと言った。ううむと悩む私。
もし早期に成長したクリのこの腫瘍が何か分かれば、先生の臨床例として残り、今後の診療の役に立たないとも限らない。クリがこんな不愉快な思いだけして、何だか分からないものに傷めつけられて終わるより、先生の臨床例として記録に残り、役に立つほうがよいと、私は思った。結局、細胞組織を採取することにした。
「先生の都合のよい日でけっこうです」と言ったのが12月18日。すぐにはしないだろうと思っていたのに、先生は「19日か25日か。明日なら年内中に検査結果が出るかもしれないので、明日19日がいいでしょう」と言う。
私が「えっ!」と叫んでしまったのは、手持ちがなかったからである。その頃ブナだけでなく、クリも下痢や嘔吐が続いていたので諸々の治療費やケア用品、介護用品になけなしのお金をつぎ込んでいたため、ギリギリの生活だったのだ。原稿料が入る20日を前にしみじみと暮らしていたのに、最もお金がない日に局所麻酔をかける診療をするなんて!
局所麻酔がいくらかかるか分からなかったので私は思わず「先生、20日にならないと、お金が払えないかもしれません」などと口走ってしまった。先生は「いいですよ」と言ってくれたけど、終わってみれば私がそんな恥ずかしい申告をしなくても済む金額(決して安くはないけれど)だった。赤っ恥であった。
ともあれ私も立ち会って無事に細胞を採取し、剃毛された温泉まんじゅうが痛々しいクリを連れて帰ったのだった。クリは人が見たら「ぎょっ」とするような見てくれになってしまった。
しばらくして先生から「意外だったのですが、肉芽腫性炎という良性のものでした。僕もこんなに大きくなったものは初めて見たし、深部に何かあるにしても、これそのものは悪性ではありません」という電話があった。
ひとまずやれやれだけど、放っておくわけにもいかない。ステロイド軟膏を塗布して様子を見ることになったのである。
ブナが角膜を患い、認知症が加速しはじめた頃から、同時進行で4本くらい仕事を抱えていて、毎日その日のスケジュールをこなしていくことにいっぱいいっぱいで、「いついつまでにこれを終える」と決めても、明日のことは考えられなかった。
へこたれそうになったことはないけれど、多分それは気が張っていたからだと思う。「いま、ここ」という言葉を呪文のように唱えながら、あの仕事を納め、この仕事を終え、転んで左腕を粉砕骨折した父の入退院に付き合い、遠方の取材も日帰りして、犬たちに何かなかったか心配しながら帰宅して、またパソコンに向かい、犬たちを代わる代わる病院に連れて行き……。
そして、ブナを看取り、泣いている暇もなく課したノルマを果たすべく、時間を惜しんでパソコンに向かい、具合が悪くなったクリの世話をしながら、
そうして、やっと昨日、大きな仕事の原稿を納めた。
まだ多少のリライトやテープ起こしは残っているけれど、それはもう大したことはない。自分が決めた締め切りを1週間過ぎてしまったけれど、やっと脱稿した。
「終わったよ、ブナ」とつぶやいたら、張り詰めていたものが緩んで、ぶわーっと涙が出てきた。気が抜けて、おいおい泣くほど余力がなかった。はらはらと、ただはらはらと涙がこぼれた。
何とか乗り切れた。今度はクリの「いま、ここ」と向き合っていこう。