十勝の活性化を考える会

     
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なつぞら効果

2019-06-08 13:16:15 | 投稿
十勝毎日新聞によれば、十勝への「なつぞら効果」がすごいそうである。
4月からのテレビ放映以来、十勝への観光客入込数が2万人を突破したそうである。
十勝の人口が34万人であるから、東京圏(人口:約4千万人)で考えると約150万人になる。
そのぐらいすごい数字である。
特に、鹿追町(人口:5千人、帯広から20キロ)にある山田天陽のモデルとなった「神田日勝記念館」には、3.8倍の観光客が来場したそうである。
 
神田日勝は、1956(昭和31)年、帯広の平原社美術協会展に初めて《痩馬》を出品し入賞する。
初期の作品《家》《ゴミ箱》《飯場の風景》などは、ベニヤにペインティング・ナイフで描くという独自の画法と、 こげ茶色モノクロームの色調から、十勝の大地に深く根ざした画家の生きざまが強く感じられる。
 
《馬》《牛》は、まるで本当にそこに存在しているかのように画面全体に大きくその存在感を際だたせている。 日勝は農民画家と呼ばれることを嫌い、画室、家族、男女、社会風俗と世相を色濃く反映した画題にも取り組んだ。
 
《室内風景》は、1970(昭和45)年、最後の完成作で、中央にうずくまり刮目する男と新聞紙で覆われた異様な室内が見る者に強烈な印象を与える。 この作品は、現代に生きることの意味を心の深奥まで響く力強さで描き代表作となった。 

 遺作《馬(絶筆・未完)》は、むき出しのベニヤに克明に描かれた馬の半身が、 全身全霊でキャンバスに対峙した画家の儚くも力強い生き様を物語っているかのようである。私が初めて絵に対して強烈なイメージを持ったのは、この絵が最初である。
「十勝の活性化を考える会」会員
 
注)神田日勝の略歴
1937年(東京都で次男として生まれる)
1945年(戦火を逃れ、拓北農兵隊として鹿追町に入植、8歳)
1960年(第15回全道美術協会展で初受賞、23歳)
1962年(高野ミサ子と結婚、25歳)
1964年(長男哲哉生まれる、27歳)
1965年(第4回独立選抜展にを出品)
1970年(腎盂炎による敗血症で死亡、享年33歳)







転職

2019-06-08 05:00:00 | 投稿

              

先日、「北海道新聞」令和元年64日付け『卓上四季』欄に、以下の記事が載っていた。

 『禁煙に挑戦するポイントは、「3」だと聞いたことがある。3日目、3週間目、3カ月目、3年目が難所で、ここを乗り越えるのが肝心なのだそうだ。新入社員にとっても「3」は大切である。様々な理由で退職する人が増えるのが、入社から3日、3週、3カ月、3年の節目だと言われる。この6月が、ちょうど3カ月目にあたる。

 だから、というわけではあるまいが、「退職代行」への依頼が目立つそうだ。会社を辞めたいが、自分からは言い出しにくい。そういう人たちに代わり、専門業者が退職手続きをする。「会社を辞める時ぐらい、自分で言えないのか」と思う人もいよう。

ただ、昨今の人手不足もあり、退職の意思を会社に伝えると会社側に強く慰留され、辞めたくても辞められないケースも少なくないらしい。

 国の調査では、大卒で就職後3年以内に辞めた割合は3割を超える。

「売り手市場」が続き、転職しやすいという背景もあろう。ただ、せっかく入った企業との縁が、3年足らずで切れてしまうのは残念な気もする。

 「若者は、企業が社員を大切にしているかに敏感で、辞める一番の理由は、職場の人間関係です」。学生の就職支援に当たる教授がそう言っていた。』  (後略)

 

十勝の活性化を考える時、転職は企業の損失に繋がり企業にとってあまり好ましいことでは無い。日本の非正規社員が4割と言われており、愛社精神が醸成されることはまずない。GDPとは関係ないが、このGDPが中国に抜かれ、将来的にはインドにも抜かれるようであり、企業における非正規社員の比率を心配している。

「十勝の活性化を考える会」会員



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