私の知人に、障害を抱える難聴者がいます。私より1歳年上であるが、彼の出身地が十勝にある士幌町で、私の父親も士幌町で育ったので何かと話題に事欠きません。先日、彼が自宅に来て久しぶりで情報交換しましたが、お正月から脊椎間狭窄症で大変だったそうです。彼が、ブログ投稿文で“お互いに認め合うということ”という題で投稿していたので再掲します。
『私たちの随筆サークルが、いつの間にか空中分解状態になっていることを、自分は難聴で知りませんでした。これでは話し合うというより、お互いに認め合うことさえできません。 随筆サークルの先生は生徒を育て、生徒は仲間同士として互いの成長を認め合う。
ところが、先生は生徒を見捨てるし、随筆の仲間同士は平気で相手を侮辱する人もいる。それでは、「意見の違いを認め合う」こともできません。ろうあ者の世界では、お互いがコミニ、ケションを取りづらいのですが、健常者の世界では少しましかと思っていました。
アイヌ民族のように差別で傷ついた人の心は、簡単には癒されません。同じサークル仲間が出版した自費出版本に、「同じ境遇に置かれなければ、その人の本当の気持ちは分からない」と書いてありました。私は、自己中心的な人にはかかわらないようにしています。そして、人間は罪深いと思っている人のほうが、謙虚で好きです。』
また彼は、『障害者は、このようにしてほしいとか、このような例もあるので変えてほしいとか、障害者自らが具体的に主張すべきである。そのようにしないと何も改善されない』と言っていました。障害者は差別されやすいので、差別と区別の違いを考えてみると次のとおりです。
差別と区別の違いは難しい問題でありますが、その違いを理解することは、本質的な問題解決につながると思います。「分ける」ということは人間の基本的な作業のひとつでありますが、その「分ける」という行為に非合理性があった場合には「差別」になり、合理性を認識した場合には、「区別」ということになります。
女性に選挙権が与えられないのは、「女性差別」です。特定の地域の人に選挙権を与えないということがあるとすれば、それも「差別」です。また、黒人が肌の色の違いによってさまざまな人種差別を受けることや、学校のいじめも差別です。
しかし、この問題はそれほど単純ではなりません。何をもって合理的といい、何をもって非合理的というかが問題であります。例えば、海外居住者に選挙権がないのは、これまで合理的と判断されてきましたが、最近ではその問題性が指摘され、海外居住者の投票が始まっています。
人類は幾多の試練を経て、人権があると主張し続けて闘ってきた結果、基本的人権を勝ち取りました。絶えず主張し続けることで、やっと維持できるものが人権であります。もちろん、他人に迷惑や自分勝手な行動が許されるわけではありませんし、公共の福利のために、一定の制限を受けます。「差別をしてはならない」というのは現代社会の鉄則であり、アイヌはこの差別に対して長い間にわたって苦しんできました。そして、今もアイヌの差別は続いています。
我々は何をもって差別を合理的とみるか、非合理的とみるかは本質的な問題であります。本質な問題とは、「我々はどんな社会を創ろうとしているのか」ということにつながるのではないかと思っています。現在、新型コロナ禍のパンデミックにありますが、もっとみんなが生きやすい社会にするために、人間のあるべき姿をもう一度考えてみたい。
「十勝の活性化を考える会」会長