十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

高木姉妹のトークショー

2019-10-26 05:00:00 | 投稿

令和元年97日、「十勝プラザ祭り」が開かれ「高木姉妹のトークショー」を聞いてきた。高木姉妹と言えば、2018年韓国平昌で開かれた冬季オリンピックの団体パシュートを思い出す。

トークショーでは様々な話が語られたが、二人の違いが分かってとても面白かった。例えば、姉はスタートの時にあまり緊張しないが、妹はその緊張感をバネに滑るそうだ。

またトークショーの時、冬季オリンピックスケート強化委員の黒岩彰氏も来ていた。黒岩彰氏と言えば、冬季オリンピックのサラエボ大会(1984年)500メートルで期待されていたが、失速し10位に終わった。

しかし、そのあとに滑った無名の北沢選手(釧路市在住、法政大学)が最高の滑りで銀メダルを取り、日本中を喜ばせた。北沢選手は試合後、次のように語った。「自分でも信じられないぐらいの良い滑りができた」と。私は、日ごろの練習の成果が出ただけだと思った。

ところで、サラエボで思い出すのは、第一次大戦の引き金になったとされるサラエボ事件とサラエボ内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)である。

サラエボ内戦とは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体に伴って、ボスニア・ヘルツェゴヴナに居住していた民族のうち、ポシュニャク人とクロアチア人が独立に賛成したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指して戦った1992年から1995年までの内戦である。この戦いで20万人以上が犠牲となり、難民・避難民200万人が出たとされる民族紛争で、詳しくは別添のとおりである。

なおユーゴスラビアは、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字を持った国であった。

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注) ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とは、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナ1992年から1995年まで続いた内戦で、ボスニア紛争ともいう。

[背景】

1991年に勃発したユーゴスラビア紛争にともなうユーゴ解体の動きの中で、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%ボシュニャク人(ムスリム人)、33%セルビア人17%クロアチア人と異なる民族が混在していた。ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

[戦闘の展開]

紛争の始まり

1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、クロアチア警察軍とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。このユーゴ解体の流れを契機とし、ボシュニャク人およびクロアチア人はボスニア・ヘルツェゴビナの独立を模索するが、地域人口の一部を占めるセルビア人はこれに反対。クロアチアに倣い、セルビア人は自治区を設立して独立の動きに対抗しようとしたが、ボシュニャク人が主導権を持つボスニア・ヘルツェゴビナ政府はこれを認めなかったため、両者間での武力衝突が生じるようになった。

このような状況の中、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はセルビア人の反発を無視して1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年2月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票を行った。セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、住民投票は90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。4月6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。

92 - 93セルビア人勢力の優勢

紛争の開始直後はユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。また、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は必ずしも一枚岩ではなく、緊密な連携に欠けていた。クロアチア人とセルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ分割交渉をきっかけに、クロアチア人勢力とボシュニャク人勢力との間で武力衝突が勃発した(クロアチア・ボスニア戦争)。セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧し、首都サラエヴォを包囲。劣勢に立たされたクロアチア人勢力はヘルツェゴビナ西部の確保に専念し、ボシュニャク人勢力はサラエヴォ、スレブレニツァゴラジュデジェパなど主要都市を含む国土の残り3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビア人勢力を支援するユーゴへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年の終わりまでセルビア人勢力の優位は保たれた。

1993年春、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。

94 - 95年春対セルビア人勢力包囲網の構築とその破綻

94年に入ると、アメリカの介入によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を締結。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人の連邦国家が結成されることも決定された。これは、アメリカによるセルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、北大西洋条約機構NATO)によるセルビア人勢力への小規模な空爆が実施された。また、85日にセルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃したことに対し、NATOによる再度の空爆が行われた。さらに秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。

これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、11月初めにはセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。ボシュニャク人勢力を支援するため、1121日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国際連合保護軍兵士を人質として拘束するという対抗手段に出る。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリスフランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥った。事態は混迷の度合いを増すが、ジミー・カーター元アメリカ大統領の仲介により、19951月1日から4ヶ月の停戦が実現した。

【戦闘の終結

1995年春、停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジェパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた。セルビア人勢力の攻勢に対し、NATO5月から7月にかけてセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対抗した。また、セルビア人勢力による人質作戦への対応のため、NATOは国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立した。

同年828日には非戦闘地域に指定されていたサラエヴォ中央市場にセルビア人勢力が砲撃を行い、市民37人が死亡する事件が発生。これを受けてNATOデリバリット・フォース作戦を発動し、830日から914日まで(92日から4日は一時停止)これまでにない大規模空爆を行った。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 

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連載:関寛斎翁 その4 阿波国徳島行き

2019-10-25 05:00:00 | 投稿

阿波徳島行き

 寛斎が銚子に帰ってくると患者は押しかけてきた。毎日、溢れるほどの患者で診察は慌ただしかった。

 三宅艮斎が、臨床によって西洋医学のよさを知らしめ、関寛斎によって飛躍させた銚子では、西洋医学に携わる医師の存在が漢方医を越えるものとなってきた。口伝えによって、外科医関寛斎の名は銚子の街に広がっていき、押しかける多くの患者に対応する多忙な毎日となった。

 麻疹が流行したときも直情、熱血漢であった寛斎は、寝食を忘れて市中を駆け回った。夜中でも早暁でも、患者のもとに走った。どこにでも往診する寛斎の人気は益々高まり、戻って来て半年も経つと、長崎留学の際に演口梧陵から借りた百両のうち半額の五十両を返済することができた。

梧陵は返済を求めてはいなかったが、寛斎にとっては、借りた金は一刻も早く返したかったからである。

患者に信頼され、医業は栄えて、恩人にも半金を返済した寛斎が、生まれ故郷に近い銚子で腰を据えて市井の医師としての道を励んでいこうとしていた矢先、佐倉順天堂の同門須田泰嶺から1通の手紙を受け取った。須田泰嶺は阿波徳島藩蜂須賀公の江戸詰侍医を務めていた。

手紙の内容は、「多忙の折とは存じ候が、江戸へ是非ともお越し願ひたく候」としたためられていた。この一通の手紙が、寛斎の生涯に再び大きな転機をもたらすことになった。
江戸へおもむくと、徳島藩主蜂須賀斉裕の国詰侍医になることを要請されたのである。徳島藩主蜂須賀斉裕は十一代将軍徳川家斉の実子で、徳島藩蜂須賀家と養子縁組して、その十四代藩主として徳島に下っていた。

「侍医にならなければ。徳島の漢方医たちを説得できない。阿波徳島に赴き、貴殿の力で若い藩士を育てて欲しい。江戸の徳島藩邸を私が、阿波の国元を貴殿が、互いに手を取って刷新しようではないか。まず、徳島藩から変えていこう。関、頼む」

須田泰嶺は詰め寄った。同門の須田にそこまで期待を懸けられては断るわけにはいかなくなった。これも自分に課せられた天からの仕事だと思い、また、徳島に赴くことが生まれながらの宿命だと自分に言い聞かせた。そして、寛斎は阿波の国へ渡る決心をした。長崎から銚子に戻ってきて八ヶ月後である。
 寛斎は決断すると早かった。明けて一月二十九日、蜂須賀斉裕公の大名行列に従って徳島に向かった。寛斎三十四歳のときである。東海道を西に向かい、静岡、浜松、吉田、京都、淡路を経て、二ヶ月もかけて阿波国徳島に入った。文久三年(一八六三)弥生三月二十八日、桜が散り新緑芽吹く季節であった。

 関寛斎 最後の蘭医 戸石四朗著


髙田郁氏は「あい永遠に在り」の中でこの情景を次のように描いている。

『予定通り五日後の深夜、寛斎は江戸から戻った。肝が据わった様子に、あいは夫が江戸で確かな答えを用意したことを察した。
「十一代将軍、徳川家斉さまの御子息で、先代の公方様の叔父上に当たられるかただ。
その藩主の国許で御典医になれ、と言われたのだ」
御典医と言われても。あいは茫然と夫を見返した。
「そんな……。濱口さまのご尽力で長崎へ留学し、この銚子に戻ってまだ半年。今回の留学の話を受けてここを去るのならまだしも、後から降って湧いた話を理由にするだなんて」
士分に転んだのか。俊輔ならきっと、そう怒鳴るに違いない。
藍かじりの百姓の倅が殿様の御典医として士分に取り立てられる。
通常では考えられないほどの大出世ではあるが、あいにはどうしても得心できない。
「医師になった目的が立身出世ならば、私も喜んで徳島とやらへ参りましょう。けれども先生は、強い志を持って医師になられたはずではないのですか」
言い募るうち、あいは夫の顔が苦渋で歪むのを認めて、口を嘸んだ。
あい、と寛斎はれた声で妻を呼んだ。

「わかっている。全て、私自身が一番わかっている。そのうえで決めたことなのだ」
双眸に哀しみが満ちていた。その哀しみが、あいの胸を深々と抉る。』

 §

 百姓の倅が殿様の御典医として士分に取り立てられる」というサクセスストーリーではあるが、背景には濱口梧陵の惜しみない支援とそのことが双肩にかかる重しとして寛斎の心に作用していたのは間違いない。しかし自身の向学心や社会的使命感から、蘭学医として翔ばたく夢も大きかった。自らの出自ゆえの貧困・苦学という宿命を妻あいと共に引きずりながら、前へ、より前へと進んでゆくことを決意したのであろう。

 「十勝の活性化を考える会」会員 K

 

 

徳島城三の丸石垣と城山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 


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ヘイトとどう向き合うか

2019-10-24 05:00:00 | 投稿

 

ヘイトとどう向き合うか

 

先日、「北海道新聞」令和元年818日付け『記者の視点』に、以下のことが書かれていた。

 

『朝鮮半島への補助金停止に反対する声明を出したことなどで、千通近い懲戒請求を受けた札幌市の弁護士3人が、今月下旬、道内の請求者52人に対し、損害賠償を求める匿名訴えを札幌地裁に起こす。問われるべきは、在日韓国・朝鮮人を批判する匿名ブログにあおられた請求者の「軽率さ」でなく、請求書一枚一枚ににじむ、激しい差別的主張だ。特定の人種への憎悪をあおり、差別を助長しようとしたこの「ヘイトスピーチ」の本質を、私たちは法廷を通じ、しっかりと見極めなければならない。

 

ヘイトスピーチは、「差別先導表現」と訳され、法務省によると、特定の人種や民族などに対する脅迫的言動や侮辱的言動、社会からの排除などをあおることなどを言う。2012年ごろから東京・新大久保や川崎などで激化。「国へ帰れ」 「〇〇は殺せ」などと主張するデモが頻発した。

道内でも例外ではない。私が初めて、ヘイトスピーチによるデモと、それに反対する「カウンター」の大規模衝突を取材したのは17年夏。札幌市中央区の大通公園周辺、多くの買い物客や親子連れが集う中で、あんな「闘い」が起こるとは思わなかった。

差別に反対する約100人の「カウンター」が「レイシスト(差別主義者)帰れ!」と激しく抗議し、特定の民族への憎しみをあおるヘイトスピーチをかき消した。警察官に何度も歩道に押し戻されながらデモ隊に詰め寄り、行く手を阻んだ。行動で差別を止めようとしていた。

ヘイトスピーチ対策法施行から3年以上が過ぎたが、同法に罰則規定はなく、路上でもインターネット上でもヘイトは後を絶たない。在日韓国・朝鮮人だけでなく、アイヌ民族に対しても、存在そのものや、先住性を否定するなどの差別的発言が渦巻く。だが戦前に言語統制があった日本では。今も「表現への自由の侵害につながる」とヘイト規制への慎重論は根強い。

「表現の自由」。憲法21条に定める民主主義に不可欠な、この大事な権利について、深く考える機会があった。 (中略)

 

個人の尊重をうたう憲法13条は「最も重要な条文」とも言われる。一人一人を自立した個人として尊重する考え方は、基本的人権につながる憲法の要だ。とりあけ弱者・マイノリティーの尊厳が守られなければならない。個人を尊重することは個人が属する集団を尊重することでもある。

さらに、法の下の平等を定める14条の1項で、「人権、信条、性別、社会的身分又は門地」により、政治的、経済的、社会的関係で差別されないと明示する。ヘイトスピーチは、このどちらの条文にも、憲法の理念にも反する。 (中略)

 

差別的言動を行う人々は、「ヘイト」と呼ばれることに反発する。ネットを含めて、さまざまな形で猛抗議する。だが差別的発言や扇動はヘイトであり、ヘイトは「表現の自由」の範疇にないと、毅然と向き合わなければならない。 (後略)』

 

この差別について知人が、以下のように言っていた。

「差別」とは人に「差」をつけ、自分とは「別」の存在(グループ)として一種の排除をすることだと思います。人間には能力や外見など合理的或いは非合理的な様々な違い(差)があることは否定できません。大切なことは、その事実を認めたうえで、その「差」によって人を排除しないことです。

   

「十勝の活性化を考える会」会員 

 

 

注) ヘイトスピーチ

ヘイトスピーチは、人種、出身国、民族宗教性的指向性別容姿健康障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃脅迫侮辱する発言や言動のことである。日本語では「憎悪表現」の他、「差別的憎悪表現」、「憎悪宣伝」、「差別的表現」、「差別表現」、「差別言論」、「差別扇動」、「差別扇動表現(差別煽動表現)」などと訳される。ここでいう差別とは、前述のようなエスニシティ、宗教、ジェンダーやセクシュアリティ、心身の障害など、何らかの差異を共有するとみなされる集団ごとに、社会的資源が偏って分配されているという社会的不均衡のことである。ヘイトスピーチが差別扇動表現などと訳されるのは、単に感情としての憎悪の発露ではなく、この社会的不均衡である差別を増大せしめる可能性があり、「属性的な特徴を、社会の成員として扱われる資格を誰かから奪う行為と結びつける」言語行為だからである。

 (出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


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アマゾンの火事

2019-10-23 05:00:00 | 投稿

 

28年前の話になるが、フィリピン「ピナツボ山」が大噴火し千人以上が死亡し、世界の気候に異変が生じたと言われる。

そして今年、「地球の肺」と言われるアマゾン川流域に火事が発生し、今も火事は飛び火しているそうである。

火事は、ピナツボ山の大噴火と比べて数十倍の規模で、世界の気候への影響が懸念される。

私は科学者でないが、「地球温暖化」に少なからず影響を与えることになると思う。

アマゾンの火事は、そのぐらい人類にとって大問題と思っている。

 

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注) アマゾン熱帯雨林

 アマゾン熱帯雨林とは、南アメリカ大陸アマゾン川流域に大きく広がる、世界最大面積を誇る熱帯雨林である。2019年の大火事で10%の面積を焼失したとされる。

 面積は約550万平方kmアマゾン盆地(約700万平方km)の大部分を占め、地球上の熱帯雨林の半分に相当する。省略してアマゾンとも呼ばれる。7カ国が含まれ、60%ブラジルにある。

生物多様性に富み、ブラジル政府は専門の研究機関である国立アマゾン研究所(INPA)を設置している。

植物はエネルギーを得るために二酸化炭素を利用して光合成を行い、炭素を固定するとともに酸素を放出、あるいは呼吸によって酸素を消費しているが、アマゾンは二酸化炭素を吸い込んでいる(炭素固定している)量がとても多いため「地球の肺(lungs of the Earth)」とも呼ばれる。「地球の酸素の1/3を供給する」とする説もあるが、これは間違いであり、実際にはアマゾンの熱帯雨林は極相状態にあり、若い樹木と比べて効率の悪い葉と酸素を大量に消費する巨大に育った幹の存在、有機物を分解する過程で酸素を消費する土壌の微生物によって、酸素や二酸化炭素の消費と放出が均衡しているため、開発によって樹木や土壌に固定された炭素を大気中に放出しない限りは、大気成分に影響を与えない。この説は、アマゾン研究の第一人者にインタビューを行ったジャーナリストの勝手な誤解が広まったと言われる。オックスフォード大学環境変動研究所のヤドビンダー・マルヒ教授の試算では、アマゾン熱帯雨林は陸上で生産される酸素の16%を生産し、同じ量の酸素を消費している。

 アマゾン熱帯雨林はまっすぐに伸びた豊富な樹種が林立しているにもかかわらず、林床部が貧弱である特異な特色を持つ。 哺乳類としてはオポッサムナマケモノアルマジロホエザルクモザルマーモセットタマリンカピバラパカアグーチキノボリネズミキンカジューオリンゴチスイコウモリシロコウモリマナティーカワイルカジャガーオセロットバクペッカリーマザマジカなど変化に富んだ多数の種類が生息している。ただし、他地域に比べると大型哺乳類の種類も個体数も少ないという特色がある。

鳥類はさらに多く、オウムハチドリオオハシホウカンチョウなどを代表として鮮やかな色彩の羽毛を持つ種が多数見られる[6]爬虫類カイマンアナコンダが一般に知られているが、個体数としてはカワガメが最も多い[6]魚類ピラニアデンキウナギピラルクなどが良く知られているほか、500種を超えるナマズ目が生息している。

昆虫は現在でも新種が次々と発見される状況にあるほど豊富である。

環境破壊

熱帯雨林は1967年頃に比べて20%消失した。 2006年の国際連合食糧農業機関(FAO)の報告では、伐採された森林の70%が放牧地へと転換されている。また中国での中流階級の台頭と、ヨーロッパで発生した狂牛病への対策として畜産飼料大豆餌に切り替えられたことによる需要の増大によって、大豆畑も増加している[10]。このため、2006年には環境保護団体のグリーンピース (NGO)マクドナルドなどの食品業者が、カーギル社などの穀物の主要取引会社に対し、アマゾンの転換畑で生産された大豆を2年間買わないようにとの交渉を行い、合意された[11]

世界自然保護基金(WWF)は、2030年までに、最大でアマゾン熱帯雨林の60%が破壊され、この影響で二酸化炭素の排出量が555億トンから969億トンに増える可能性があることを報告した。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 


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詩:母親というものは

2019-10-22 05:00:00 | 投稿

 

 

      母親というものは

    葉 祥明  (老父母の金婚式の時に書いた詩)



  母親というものは
  無欲なものです
  我が子がどんなに偉くなるよりも
  どんなにお金持ちになるよりも
  毎日元気でいてくれることを
  心の底から願います
  どんな高価な贈り物より
  我が子の優しいひと事で
     
     十分過ぎるほど幸せになれる
     母親というものは
     実に本当に無欲なものです
     だから
     母親を泣かすのは

  この世で一番いけないことなのです

 

 発行所 ㈱銀の鈴社  ありがとうそよかぜ 

   葉 祥明(よう しょうめい)
   1946年 7月7日熊本市に生まれる
   1972年 処女作 (創作絵本)「ぼくのべんちにしろいとり」出版

   英国版、フランス版、スウェーデン版、発行される
   1990年 北鎌倉に「 葉 祥明 美術館」開館
  
   我が子と北鎌倉美術館に行ったのが…昨日のように思い出されます。

   人生の中で 見落としていたものに、詩、絵画に気づかされました。

   幸せを運ぶ人、ひとをくつろがせる寛容な人、優しい人、一度会えばまた会いたくなるそんな人になりたい。

   そのような人の周囲には、いつも人々が集まります。
         

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