先日、視覚障害者から2.5キロの部、制限時間が30分の「フードバレーとかちマラソン」に出場しないかという電話があった。彼は20年前に失明し、年齢は71歳である。メラビアンの法則によると視力から得られる情報が55%であるから、失明したことの不自由さが分かる。
彼は、その不自由さを少しでも解消するために、毎日、本の朗読を聞くそうである。彼とは介護施設が同じだったことから、今でも交流している。彼は地獄耳ではないが、視力を失ったために聴力が発達しており、独特の感性も持っている。
私も8年前、脳出血により一時的に失明したが、彼の20年間と比べると「月とスッポン」の違いがある。三重苦の“ヘレン・ケラー”が障害を克服したことを思うと、頭が下がる思いである。なお、「フードバレーとかちマラソン」は、令和元年10月27日(日)午前9時、スタートの号砲が鳴る。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) 視覚障害者
視覚障害者とは視覚(視機能)が日常生活や就労などの場で不自由を強いられるほどに「弱い」、もしくは「全く無い」人たちのことである。
長年、情報障害者と、言われ続けてきたが、ノーマライゼーションの社会的風潮の土台の上、近年の情報通信技術の著しい発展で、状況によっては健常者と変わらない活動をする機会が与えられるようになってきた。
残存視覚がある「弱視者」と、視覚をもたない「盲」(全盲)とに分けることができ、前者を見えにくい人、後者を見えない人、と呼ぶ場合がある。
過去「めくら」と呼ばれたが、現在では差別的(差別用語)とされたり、「視覚障害者」という言葉の指し示す対象が拡がってきた事もあり、使わない傾向にある。
障害者、特に視覚障害者はどの時代や国、地域にも広く存在する社会的少数者(マイノリティ)であるとされ、生活は時代や国により大きな制約を受ける。WHOによれば、世界の視覚障害者は推計2億5300万人、そのうち3600万人が全く見えず、2億1700万人は中度から重度の視覚障害を持っているという。視覚障害者の内「弱視者」(またはロービジョン者)の割合は7割とされている。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
注) メラビアンの法則
メラビアンの法則とは、矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかを判断するアルバート・メラビアンが行った実験についての俗流解釈である。
この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。
この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。
この内容が次第に一人歩きをし、この法則から「見た目が一番重要」あるいは「話の内容よりも喋り方のテクニックが重要」という結論が導き出されると言う解釈が有名になっている。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
瀬川拓郎著「アイヌ学入門」の本には、アイヌの祖先について分かりやすく説明していたので紹介したい。
『(前略)本書のタイトルは、「アイヌ学入門」ですが、ここでのアイヌ学は、アイヌへの多様な関心や好奇心に接続するための学問的サポートといったものをイメージしています。「アイヌ学」という方法論をもつ学問分野が存在しているわけではありません。
読者のなかには、アイヌ学という言葉のなかに「学問する側/される側」といった植民主義の残香を嗅ぎとる方もいらっしゃるかもしれません。しかし本書の意図は、複雑なアイヌの歴史や文化の一端を提示し、そのカオスのなかから単純な二項対立の論理をのりこえていこうとする点にあります。
いずれにしろ本書の目指すのは、今後さらに明らかになっていくであろう複雑なアイヌの実態、つまり容易には要約することの不可能なアイヌという存在の解明の「前触れ」となることであり、タイトルの「入門」はまさにこの意味なのです。
とはいえ、アイヌが「要約不可能」なままでは、本書を手にされたみなさんはもちろん納得してくださらないとおもいます。
そこで、世界中のどの民族とも異なるアイヌの特徴を一言であらわすとすれば、「日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめる人びと」ということになるでしょう。縄文文化は北海道から琉球列島にかけて一万年以上も続きましたが、アイヌは日本列島に暮らしたこの縄文人の特徴をよく残しているのです。
日本のマジョリティである私たち和人は、弥生時代に朝鮮半島から渡ってきた人びとと、日本列島の先住民である縄文人と交雑して成立した集団です。アイヌはサハリンの先住民や和人と混淆することもありましたが、基本的にこの交雑化を積極的には受け入れようとしなかった縄文人の末裔であり、その文化には縄文文化の伝統も認められます。かれらはその意味で、現在の日本列島における「本家」筋ともいえる人びとであり、北海道の先住民どころか日本列島の先住民ともいえるのです。私たちはアイヌのなかに縄文時代の「ご先祖様」の姿をみているということができるでしょう。』 (後略)
「十勝の活性化を考える会」会員
注)瀬川拓郎
北海道札幌市生まれ。北海道札幌西高等学校を経て、1980年岡山大学法文学部史学科卒業。1984年に旭川市に採用され、1999年より旭川市博物館学芸員。2006年、「擦文文化からアイヌ文化における交易適応の研究」で総合研究大学院大学より博士(文学)を取得。アイヌが一大交易民族であり、アイヌ文化が他地域との交流の豊かなものであったことを論じた『アイヌ学入門』で第3回古代歴史文化賞を受賞した。旭川市博物館館長を経て、札幌大学教授。
( 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』)
濱口梧陵との出会い
寛斎は、郷里前之内村に帰ってすぐに、医院を仮開業するも、ほとんど患者がなく、佐倉順天堂まで出かけて様々な外科手術に立ち会ったり、師に代わって執刀したりすることが多かった。また診察室にこもって、「順天堂外科実験」の記録を整理したりしたようだった。
1854 年(安政元)2月6日 長男生三(幼名初太郎)誕生。 1856年(安政 3) 寛斎 26歳あい 21歳。2月15日 泰然の推挙により銚子荒野村(現在の銚子市興野) に移転開業する。銚子では、「関医院」の看板をかけたその日から患者が押し寄せて多忙を極めたといわれる。そして 1858 年(安政 5)2月16日長女スミが誕生している。
寛斎は、この地で濱口儀兵衛(梧陵)(1820-1885)と出会い、梧陵の勧めで、江戸に出て大流行のコ レラの治療と予防対策を研究して、銚子に帰り防疫に努めた。幸い佐倉・銚子では大惨事にはならずに流行は終わったといわれる。濱口梧陵は、ヤマサ醤油 7代目社長、人材育成や社会事業に関 心を持ち大きな貢献をした人物で、この出会いは寛斎の後の運命に大きく関わることになる。
(参考文献:北海道・マサチューセッツ協会「北海道開拓の基礎を築いた指導者たち」)
この出会いを髙田郁氏は次のように描いている。
『台所で飯を炊き、蒸らす間に、あいは竹箒を手に表へ出た。すでに日の出の刻を迎えて、東天は曙色に染まり、建ち並ぶ家々の瓦屋根を輝かせている。漁に出るのだろう、港の方から威勢の良い声が響いていた。郷里前之内とはまた異なる朝の光景に、あいは帯を手にしたまま、うっとりと見入った。深く息を吸うと、潮と醤油の香りが胸一杯に流れ込む。
「ああ、良い香り」 つい、声が洩れた。
ふと、脇に人の気配を感じて視線を向ければ、面長の穏やかな風貌の男が微笑みながらあいを眺めていた。
「確かに、深く吸い込みたくなる良い香りですな」
寛斎より十ほど年長だろうか。藍色の上田紬の袷がよく映る。
藍染めは海水や潮風に強く、海の傍に暮らす者の味方として、あいの心に近い。それだけに倹しい者のための染という思いがあるのだが、どこぞの大店の主という風格の男に、不思議とよく映った。』
寛斎に梧陵が会いたがっていることを伝えると
「挨拶に来い、と言うのか」
食べ終えた朝餉の膳を押し遣って、寛斎は眉根を寄せた。
「さすか御大尽だな。誰でも呼べば飛んでくる、と思っているのか」
とにべもなかったが、いざ対面してみると、医学のこと、政りごとのこと、西洋のこと等々話題は多岐にわたり、尽きることが無かったという。
幕末のコレラ流行
寛斎の診療所は患者が押し掛け、順調に推移したが、梧陵の勧めで江戸に出て当時大流行のコ レラの治療と予防対策を研究して、銚子に帰り防疫に努めた。
幸い佐倉・銚子では大惨事にはならずに流行は終わったといわれる。
『その後、コレラ禍を完全に脱するまでの約半年、寛斎は診察の合間を縫って、予防法を説いて回った。また、吐き気で脱水症状を呈した患者には、海水を清水で充分に薄めたものを沸かして与えることを教え、発症して苦しむ者には薬を用いて危機から救った。
蓋を開けてみれば、江戸市中において死者はおよそ三万人とされるのに対し、銚子ではごく少数が罹患したのみだった。
安政六年(一八五九年)。春の宵のことだ。
一日の診察を終え、関医院は静寂の中にある。夜天の低い位置に満月が浮かび、その差し込む光で、縁側のある部屋は明かり要らずだった。
「関先生、この度のこと、心から恩に着ます。お蔭さまでこの地はコロリから救われました」部屋に通されるなり、梧陵は両手を畳について、深く頭を下げた。』
そこで梧陵はオランダ海軍医師 ポンペ・ファン・メーデルフォルトが長崎に「長崎養生所」を開設し西洋医学の伝授を行っているから、ぜひ寛斎に留学してほしいと頼み込んだ。独立心の強い寛斎は梧陵の援助で留学することを最初はためらった。
しかし梧陵は自ら私財を投じて紀州の郷里に防潮堤を築いたことを引合いにだし、「あなたに日本の堤になってほしい」と、説き伏せたという。
髙田郁著「あい永遠に在り」
§
こうして寛斎は濱口梧陵の全面的な支援を受けて「長崎養生所」へと留学することとなった。松本良順や佐藤尚中などと親交を深め「七新薬」「長崎在学日記」等医学書の編纂や、西洋式解剖学、手術手技を身に付ける一方幕府軍艦咸臨丸の船医となり、外国人船員の診療も手掛けたという。
また晩年の寛斎にとって重要な人物を診察しているが、当時は知る由もなかった。その人物こそ文豪徳富蘆花の父親徳富一敬とその家族であった。
ヤマサ醤油は全国で手広く商いを行い、明治30年代には北海道帯広市にも支店があった
2018年北海道陸別町では、開町100年記念としてヤマサ醤油と提携し限定パッケージを販売した
「十勝の活性化を考える会」会員 K
十勝の農業産出額は平成29年度市町村別農業算出額(推計)によれば、約3,152億円である。北海道の農業算出額が約1兆2,762億円であるから、約25%を占めている。十勝の面積は北海道の約13%を占めており、北海道の中でも十勝の農業算出額の大きさと耕地面積の広さが突出していることが分かる。ちなみに、平成29年度生産農業所得統計によれば、日本の農業産出額は約9兆3,000億円で、北海道シェアは日本の約14%である。
なお生乳生産量だけを取ってみれば、平成29年度農水省「牛乳乳製品統計」によれば、北海道シェアは日本の約54%、そのうち北海道における十勝シェアは約30%(全国の16%)である。日本の食料基地として十勝が、いかに貢献しているかが再認識されるであろう。
一方、日本における平成30年度の食糧自給率は、カロリーベースで約37%と史上最低の数値である。日本は一体、どこに向かっていくのであろうか・・・。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 食料自給率
食料自給率とは、国内で消費される食料のうち、どの程度が国内産でまかなわれているかを表す指標。
【指標の種類】
総合食料自給率と品目別自給率
食料自給率には総合食料自給率と品目別自給率がある。
[総合食料自給率]
総合食料自給率とは個別の品目ではなく食料全体を通した一定のものさしで計算される食料自給率をいう。
総合食料自給率には、カロリーベース総合食料自給率と生産額ベース総合食料自給率の2種類がある。
- カロリーベース総合食料自給率
カロリーベース総合食料自給率は熱量換算で指標化した食料自給率である。
カロリーベース総合食料自給率=1人1日当たり国産供給熱量÷1人1日当たり供給熱量
・国産供給熱量=純食料×単位カロリー国産単価×品目別自給率(×飼料自給率・原料自給率)
・純食料=(国内生産量-輸出量)+(輸入量-非食用-減耗-非可食部分)
・畜産物の飼料の多くに輸入飼料をあてている場合には生産が成立しないので飼料自給率を乗じる。加工品については原料自給率を乗じる。
- 供給熱量=純食料×単位カロリー
- なお、国民1人1日当たりの供給カロリーとは国産供給カロリー+輸入供給カロリー+ロス廃棄カロリーの合計である。
- 生産額ベース総合食料自給率
生産額ベース総合食料自給率は金額換算で指標化した食料自給率である。
生産額ベース総合食料自給率=国内生産額÷国内消費仕向額
- 国内生産額=食料(国産)×国産単価(-輸入飼料額・輸入原料額)
- 畜産物の飼料の多くに輸入飼料をあてている場合には生産が成立しないので輸入飼料額を控除する。加工品については輸入原料額を控除する。
- 国内消費仕向額=食料×単価
[品目別自給率]
小麦や米など、特定の品目ごとの食料自給率である。算出にあたっては、品目の重量を使用する(重量ベース)。
- 品目別自給率=国内生産量÷国内の消費仕向量
国内消費仕向量=(国内生産量-輸出量)+輸入量
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)