学校とは時代の変化がよくわかる場所で、この23年間でも価値観の変化によるルールの変化、習慣の変化がありました。あまりに多すぎて、思いついたときにその都度書こうかとは思いますが、今思うことを少し紹介します。
手書きの方が温かい
通信簿や指導要録、調査書など、当然、担任の先生が一人一人ペンで書きました。なんか、万年筆みたいな、黒くてひょろっと長い、インク式のペンを使うように言われ、いわゆるボールペンはダメでした。今でもなぜダメなのかわかりませんが、そこは昭和日本、ダメなものはダメなんだという、説得力満点の言葉で納得していました。まあ、昔からきっと理由があってやってるのだから、それに従おうという、暗黙知みたいなものがあるわけです。今でも僕の机の奥には、数字やABC、○◎などのハンコが缶の中に入っています。また、本当はいけないのですが、砂消し(わかります?)が入っています。電動です笑
よく、通信簿や要録を下書きしていると、民間人の妻に、「なんで下書きがパソコンで本書きが手書きなの?」と、かなり説明の難しい質問をされました。一休さんも頭をひねる難問です。これについては、「パソコンは直せるから」と理解しているのでしが、「手書きも書き直せばいいじゃん。そもそも、その砂消し・・・」という答えで一敗。
「手書きでないとその人が書いたって証拠ないだろ?」という、これは期待できそうな答えに「筆跡鑑定いちいちするの?というか、最後に印押すのはそのためじゃないの?印鑑証明とるの?」ということで二敗。そもそも、コンピューターが指紋認証や顔認証でログインする時代にいたっては、もはや印の方が本人かどうか、確認ができないですね。確かに、うちの部長は勝手に僕のシャチハタ印を持って歩いています。
「先生が苦労して手書きでメッセージを書くというのが、相手に心が伝わる」という、目に見えないところで攻める。一般的に、特に小学校の先生は字が綺麗なので、これは確かに嬉しい。しかし、当時先輩教員だったTノウエ先生と僕はあまりに文字がヘタだったために、全部書き直させられ、挙句に校長先生から『かきかた』のテキストをプレゼントされるという、武勇伝がある。「字はその人の人格が出る」などと言われては、苦しいが、そこは方便、「下手でもいいから丁寧に」という、これまた目に見えない(まあ、字は見える)ところで攻め、ギリギリ引き分けに持ち込む。
いずれにしても、この手書き論争、0勝2敗1引き分けという、監督だったら辞任、選手だったら降格か自由契約間違いなしの苦しい時代がありました。
それでも、これは平成10年代前半の話。もう教員になった時にはウインドウズ95があって、ワード・エクセルが標準の時代に学校はこんな状態だったのです。書類を校長先生に提出した時のことです。この校長先生は人望が厚く、親分肌の頼れるいい校長先生でした。採用試験に合格した時も誰よりも喜んでくれました。その校長先生、「おい、徳増、なんで手書きじゃないといけないかわかるか?生徒や保護者はなぁ、先生のこういう苦労を肌で感じ取って、担任の思いや魂を込めたメッセージが伝わるんだよ」と、妙に説得力のあるご指導をいただきました。「僕も魂を込めて職員室中にバチバチ聞こえるくらい一心不乱にパソコンを打ちました」と答えたら、「くだらないこと言ってないで早くやれ!」と、あたたかさを通り越してアツすぎるご指導をいただきました。
今だったら、サンドイッチマンのように、「お前はヨシキか?!」と言ってくださるのかなぁ?
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