やっぱり苫社協~苫小牧市社会福祉協議会日記~

社協行事の案内や報告、
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献血

2011-08-31 20:39:11 | 雑件

本日、苫小牧市内各所で献血を行いました。

苫小牧市では、北海道献血センター室蘭出張所より、、採血車が配車されて献血を行っています。年間100日程になりますが、道内でも協力者の多い地域です。

本日も、多くの方々に協力いただき、ありがとうございます。

献血の協力をいただいた血液が、どのように役立っているのか、今日は、赤十字新聞から抜粋させていただいた「アンパンマンのエキス」を紹介させていただきます。

少々長くなりますが、最後までお読みいただけたら、幸いです。

 

過酷な治療を支えた輸血

~ある男の子の闘病記~

4歳の男の子にとって、10ヵ月にも及んだ闘病生活はあまりにも過酷なものでした。

りょうすけくんが神経芽細胞腫を発病したのが1999年秋。その腫瘍の大きさに細胞の組織検査をした医師も驚くほどの小児がんでした。抗がん剤で縮小させてからでないと切り取れない・・・。壮絶なたたかいが始まりました。

手術を待つ間、何の治療もしなければ「年は越せない。早ければここ2、3日で急変することも」とまで言われました。すぐに開始された抗がん剤治療は、りょうすけくんの体も弱らせました。起き上がれなくなるほどぐったりし、嘔吐を繰り返しました。がん細胞と同時に正常な細胞が壊れ、これが原因で死亡する可能性さえありました。

 その時に必要となったのが輸血でした。10ヵ月の間に受けた輸血は50回を超え、1回の輸血で献血者8人分の血液が必要な時もありました。

4歳の男の子はそのことの意味を理解していました。

「なんで血を入れるの」という問いに、母親のきよみさんはこんな説明をしました。「体の中のバイ菌を殺すためにクスリが必要やろ。そのクスリはりょうすけの体も叩くから、それで元気になるためにいろんな人から血をもらうんや。その後は自分の力で元気になるんや」

りょうすけくんはこたえました。「そうかアンパンマンのエキスやなあ」

自分の顔を食べさせて他人を元気にするアンパンマンが、りょうすけは大好きでした。

 

保存のきかない血液

白血球の数がゼロに近い。こんな時、体調は最悪です。でも「アンパンマンのエキス」を注入されると、元気を取り戻しました。

 一度、病院への血液の到着が大幅に遅れました。この時のことが、のちにきよみさんが公開したブログ(インターネット上の日記)にこうつづられています。

「輸血をしなければ即、何が起こっても不思議じゃない。でもなかった。『早く!早くなんとか!』。ずっと苦しがっている長男の手を握りしめながら祈ることしかできないこの歯がゆさ。そして深夜、丸一日経って届けられた命をつなぐ血!」

赤血球のほかに血小板輸血も受けていました。血小板は献血された時点から72時間しかもちません。「期限ぎりぎりということも何度かあった」(きよみさん)

赤血球でも有効期間は21日間。長期保存ができないため、日常的に血液を確保する取り組み、つまり献血の募集が欠かせません。

兵庫県赤十字血液センター(神戸市)。りょうすけくんの「命をつなぐ血」は通常、ここから入院する病院に届けられていました。

同センターの企画課広報係の毛藤もと子さんは「ふだんご協力いただける企業や学校が休みになる年末年始を含む冬場や春先が血液不足になりがちです。神戸は12年前に震災を経験していますし、一昨年は尼崎の脱線事故もありました。血液が不足している時に大きな災害や事故が起こったらと思うとゾッとします」と話します。

 

ありがとうの気持ちがあふれ

2001年7月、りょうすけくんは亡くなりました。

この間に1度、1ヵ月間の外泊が許され、りょうすけくんは父と母、妹と楽しい時間を過ごしました。抵抗力が落ちているため人ごみへの外出は厳禁。事情を察した遊園地と水族館が開園・開館前に家族を招いてくれたこともありました。

「闘病というとつらいイメージがあるけど、輸血を受けながら笑顔で過ごせたんですよね」

亡くなってからしばらく、きよみさんは何もする気が起こりませんでした。そのころの記憶さえあまり残っていないといいます。1ヶ月後、三宮にある献血ルームを訪れたのがほとんど初めての外出でした。

平日の昼間。「なのに、こんなにたくさんの人が献血に来てくれている。ありがとうっていう気持ちでいっぱいになり、涙が出てきた」

当時の成分献血では両腕に針を刺されます。涙がふけません。看護師がしきりに「痛いの。大丈夫?」と気にし、涙をふいてくれました。その時は何もこたえられず、献血ルームにあった「メッセージノート」にその思いを残しました。

「私の4歳の長男は小児がんです。10ヵ月の闘病生活の末、亡くなってしまいました。その間、みなさまの献血のおかげで安心して治療を受けることができました。あの子は輸血を受けると元気になることを知っていて『アンパンマンのエキスだ~』と言っていました。どんなに『ありがとう』と言っても足りません。今でも病院では、多くの子どもたちが輸血を待っています。これからも献血をお願いします。もちろん私も来ます」(一部を省略しています)

献血ルームの職員がこれをみつけ、ふたたび訪れたきよみさんに声をかけました。

「その後『アンパンマンのエキス』は、小冊子や献血の広告・ポスターなどの呼びかけや看護学生さんの教材などにも使ってくれています。亡くなった後も、こうしてみなさまに可愛がってもらえるなんて長男はとても幸せ者です」

昨年パソコンを始め、自らのブログを公開。「メッセージノート」の文章とともにその後の自身のことやこうした経緯などを紹介しました。これが人気ブログの一つになり大きな反響を呼びました。

「『アンパンマンのエキス』はりょうすけが『ありがとう』って言いたかったんだろうと思って書いたんです。いまでも自分が書いた気がしないんですよ」

(赤十字新聞2007年2月1日号抜粋)

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