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年寄りの独り言

千年の記憶

2012年03月09日 | 東日本大震災

元禄2年5月に芭蕉は「末の松山」の見物のため塩釜からわざわざ多賀城までもどり感激にひたる。三十六歌仙の一人で清少納言の父、清原元輔が詠んだ小倉百人一首「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」で有名な歌枕である。貞観地震のさいには津波が越えなかったとされるが、今回の東日本大震災では浸水域のなかに入っている。

末の松山


「源融」は貞観地震の頃の人であるが、嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたり『源氏物語』の光源氏のモデルともいわれる。陸奥出羽按察使となり塩釜の浦に屋敷があったという。高貴な身分の彼が実際にこの地に来たとは考えられないが、六条河原の自邸にわざわざ海水を運ばせて藻塩を焼く風雅を楽しんだ。現在でも京都市には塩釜の地名がのこる。


しおがまの地名の鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。またこの神社は伊達政宗が社殿造営を行ったのをはじめ伊達藩の崇敬はあつく塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備などを行っている。ちなみに現在日テレタワーのある汐留が江戸時代に伊達藩の上屋敷があった場所だという。

塩竈神社

震災後 2011 塩釜神社、復興祈り 花まつり

第330回 奥州一ノ宮 塩釜神社 帆手まつり 神輿渡御①

第330回 奥州一ノ宮 塩釜神社 帆手まつり 神輿渡御②

第330回 奥州一ノ宮 塩釜神社 帆手まつり 神輿渡御③

第330回 奥州一ノ宮 塩釜神社 帆手まつり 神輿渡御④

<<追記>> 「末の松山」が高台にあるため今回もどうやら津波の被害をのがれたというのが、いくつかのブログにあるようだ。

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