<フェイスブック古舘 和子さん>浸水写真アルバムより
古舘 和子 「津波浸水シミュレーションは、人命を確実に守る観点から、各々危険側の条件で実施する。」は、大嘘。まず10メートルの津波じゃなくったって、船が防潮堤にぶつかったシミュレーションなんか、どこにもない。
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Kohsuke Fujita 宮古湾の北側の蛸の浜のせり上がり高は20mであったが宮古各地では田老地区,重茂地区などせり上がり40m規模も数カ所記録されている。3・11の津波の浸水高が5m~8mだったから10.4mの防潮堤があれば大丈夫、という考えは間違い。繰り返すが、津波は平地の5m~8mの浸水を目指して壁をせり上がり平地に殺到してくる。3・11津波にあてはめれば防潮堤があっても、鍬ヶ崎地区一帯の浸水高は同じ5m~8mになるのではないかと思う。そうなったら(仮定)とりかえしのつかない事態になる。
Kohsuke Fujita 蛸の浜のせり上がり津波は右上写真の20mの坂をせり上がり、網の高さのように峠の頂上で1.5mの水深の水流となって鍬ヶ崎市街地に流れ下り、宮古港側からの津波浸水と市街地で合流=水会い、した(左上・左下)。左下の写真の奥には蛸の浜の峠が見える。この「水会い」については過去の記録もある。迫真の記述には信憑性がある。1611年(慶長16年)「鍬ヶ崎では、蛸ノ浜を越えた波と、宮古湾をめぐって北進した激浪が激しくぶつかって、家屋を倒壊流失して、ほとんどの住み家と人畜を押し流したといわれる」(「宮古のあゆみ」宮古市 昭和49年刊)。 鍬ヶ崎では津波と言ったら「水会い」を思わないわけにはいかない。
Kohsuke Fujita あ、これ私は見た事があります。2011.11.の最初の「鍬ヶ崎復興検討会議」のころ示されたものです。私は「検索」で見ましたが現地に示されたかどうか…。津波は危険だという事を警告するためだと思いますが浸水域が厳しいものになっています。しかし、その後何回も修正されて(私の知ってるかぎり)6 回のシミュレーション図が示されました。その間、大概の人はアタマが変になる、もう見るのも聞くのもやったグなって、どうでもしろというように関心が薄れていったようでした(正しい態度です!)。最後の図はまっ白い浸水 0(ゼロ)のシミュレーションでした。防潮堤が建つから鍬ヶ崎、藤原、磯鶏、…宮古には津波がないよ、という意味です。なにより、鍬ヶ崎の高台移転が地元で期待されていたのを押さえつけたいためでした。市長や役人が言いたい事を作図しただけのものでした。
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Kohsuke Fujita 驚きました。どこで、この矛盾だらけの無責任文書を入手しました? これが、ほんとうのダブルスタンダード。これが一番危険! 家を建てるときは一番やさしいシミュレーション。津波の時は一番厳しいシミュレーション。津波でも浸水はないから鍬ヶ崎の人は安心して家を建てなさいね。津波で避難する時は満潮時、地盤も下がり防潮堤も壊れてみんな死ぬ。どんなハザードマップを作るのでしょう?
古舘 和子 宮古市役所 都市計画課で、4ヶ月位前です。
このことを突っ込むと、あと数年後に、地質調査によるもっと昔からの津波の痕跡により、もっと詳しいハザードマップができるはずです。とか、今作っている最中なんです。とかいって、ほんとーーーーーに逃げてばっかりです。
そりゃ逃げるでしょう、もう作ってるので。(-.-)
まちづくりの時の資料に入れて、何回もまちづくり会議はやってる訳ですから。っていって、まちづくり委員の人達が決めたので。って逃げます。まちづくり委員会の人が決めたとしても、その場に一緒にいたんでしょ?なんで委員の人に一言言ってあげないの?こんな資料もって(怒)。ってとりあえず言うだけ言わせてもらいました。
TさんとSさんに聞けば、そんなの一回も見たこと無いっていいますし。
もーーー5年前犠牲になった方達は、いったいどういう気持ちで、お天道様からみてるんでしょう悔やまれます。
そりゃ逃げるでしょう、もう作ってるので。(-.-)
まちづくりの時の資料に入れて、何回もまちづくり会議はやってる訳ですから。っていって、まちづくり委員の人達が決めたので。って逃げます。まちづくり委員会の人が決めたとしても、その場に一緒にいたんでしょ?なんで委員の人に一言言ってあげないの?こんな資料もって(怒)。ってとりあえず言うだけ言わせてもらいました。
TさんとSさんに聞けば、そんなの一回も見たこと無いっていいますし。
もーーー5年前犠牲になった方達は、いったいどういう気持ちで、お天道様からみてるんでしょう悔やまれます。
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Kohsuke Fujitaさんが返信しました · 返信1件
Kohsuke Fujita 先の津波で鍬ヶ崎は5m~8mの浸水高。もし防潮堤を建てれば、津波はやはり5m~8mの浸水を目指して壁をせり上がり越流して平地に殺到してくる。(もっともその前に地震や津波の衝撃力で、亀裂が入り防潮堤は崩壊している と思う)。せり上がり高は津波の勢いに次々に押されて異常に高くなる…。
上方の赤い20mは蛸の浜のせり上がり高。坂を駆け上って心公院のところの峠を越えた。
上方の赤い20mは蛸の浜のせり上がり高。坂を駆け上って心公院のところの峠を越えた。
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古舘 和子
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Kohsuke Fujita 宮古湾の北側の蛸の浜のせり上がり高は20mであったが宮古各地では田老地区,重茂地区などせり上がり40m規模も数カ所記録されている。3・11の津波の浸水高が5m~8mだったから10.4mの防潮堤があれば大丈夫、という考えは間違い。繰り返すが、津波は平地の5m~8mの浸水を目指して壁をせり上がり平地に殺到してくる。3・11津波にあてはめれば防潮堤があっても、鍬ヶ崎地区一帯の浸水高は同じ5m~8mになるのではないかと思う。そうなったら(仮定)とりかえしのつかない事態になる。
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Kohsuke Fujita 蛸の浜のせり上がり津波は右上写真の20mの坂をせり上がり、網の高さのように峠の頂上で1.5mの水深の水流となって鍬ヶ崎市街地に流れ下り、宮古港側からの津波浸水と市街地で合流=水会い、した(左上・左下)。左下の写真の奥には蛸の浜の峠が見える。この「水会い」については過去の記録もある。迫真の記述には信憑性がある。1611年(慶長16年)「鍬ヶ崎では、蛸ノ浜を越えた波と、宮古湾をめぐって北進した激浪が激しくぶつかって、家屋を倒壊流失して、ほとんどの住み家と人畜を押し流したといわれる」(「宮古のあゆみ」宮古市 昭和49年刊)。 鍬ヶ崎では津波と言ったら「水会い」を思わないわけにはいかない。
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Kohsuke Fujita あ、これ私は見た事があります。2011.11.の最初の「鍬ヶ崎復興検討会議」のころ示されたものです。私は「検索」で見ましたが現地に示されたかどうか…。津波は危険だという事を警告するためだと思いますが浸水域が厳しいものになっています。しかし、その後何回も修正されて(私の知ってるかぎり)6 回のシミュレーション図が示されました。その間、大概の人はアタマが変になる、もう見るのも聞くのもやったグなって、どうでもしろというように関心が薄れていったようでした(正しい態度です!)。最後の図はまっ白い浸水 0(ゼロ)のシミュレーションでした。防潮堤が建つから鍬ヶ崎、藤原、磯鶏、…宮古には津波がないよ、という意味です。なにより、鍬ヶ崎の高台移転が地元で期待されていたのを押さえつけたいためでした。市長や役人が言いたい事を作図しただけのものでした。
いい加減に、勝手に、つくる「科学的」シミュレーションは世界中のもの笑いです。いい加減と言えばこのシミュレーション図では日立浜の防潮堤建設予定地(線)が間違ったままで、今でも間違ったままと思いますが、取り組み自体が信用できないものと言えます。担当役人も担当民間会社も…条件も吟味せず、市長の「政治的」意向だけをシミュレーションしています。
ついでに言っておく事は、冒頭で古舘さんが怒っている船舶衝突無視だけでなく、津波のせり上がり、対岸からの反射波、湾奥からの戻り波、北方の震源など、宮古地区が重要視すべき諸条件がこのシミュレーションにはなんら条件化(データ化)されていない事です。現地の人はバカではない、データの際(きわ)をちゃんと説明する事です。
健康のために見ない方がいいと思いますが下に参考リンクです。もう「ざっくばらん」な人以外は参考にしない方がいいと思います。自分が書いたものでもやったグなる。
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