名月の里で想う川中島の合戦。
ここは見晴らしが良い。長野方面に向かう時は、必ずこのSAで休憩して、ここから善光寺平を見渡す。足下を流れる千曲川沿いに位置する更埴市、4月中旬には杏子の花が村を埋める。その少し遠くには、千曲川沿いに、信玄・謙信の争った川中島が見えるはず。上杉謙信が最初に陣取った妻女山。武田信玄が上杉謙信よりも早く陣取っていた茶臼山はよく見える。
世に言う川中島の合戦(1553年)では、先ず動いたのが武田信玄であった。千曲川の西岸の茶臼山に兵を進め、上杉謙信を誘い出した形になっていた。善光寺平は上杉謙信の勢力範囲でもあった。
武田信玄は茶臼山を出て、千曲川を西から東に渡り、松代の海津城に陣取る。
上杉謙信は、これも千曲川の東にある妻女山に陣取る。両者の距離は10kmもなかった。
次の動きは、武田信玄は兵8000を持って、再び千曲川を西に渡河して、川中島を含む八幡平に進出。
上杉謙信は夜陰に乗じて、兵10000とともに、ひそかに妻女山を下る。このとき妻女山の上には、かがり火を焚き、まだ陣地に軍勢が居るが如くに擬して山を降りたのであった。
そして、これもまた千曲川を西に渡河し、音を殺して兵を進め、川中島の信玄勢8000の正面に出たという。
この上杉謙信の動きは、夜中に下山して渡河し、千曲川の河原の深い霧の中での隠密行動であった。この渡河こそ「鞭声粛々夜川を渡る」という頼山陽の詩文の情景としたい。
武田信玄が千曲川を渡河して川中島に向う時を「鞭声粛々・・」と詠ったと言う説もあるが、妻女山からは、信玄のいる海津城は全部見えるので、静かに渡る必要はないと思う。
ふと、武田信玄は夜陰の中に気配を感じたが動かなかった。縦一列に霧の中を進む謙信勢をここで叩けば簡単であったかも知れない。
しかし、この時、武田信玄は、妻女山に兵を派遣した日の早朝であり、謙信勢が既に山を降りて目前に居る事は信じられなかったであろう。
まさに長蛇を逸したのである。
それは、上杉謙信が山を降りた早朝に、武田信玄は兵12000でもって、妻女山の背後から攻め上っていたのであった。既に、上杉謙信はかがり火を残してもぬけの殻であったという情報は、まだ届いていなかったであろう。
戦いは、暁から開始された。千曲川の霧が晴れ、信玄にしてみれば不意に出現した敵であったろう。
上杉謙信は車懸かりの陣と言って、各部隊が車輪のように回転しながら順々に攻めかかったという。
武田信玄は、初め鶴翼の陣と言って、鶴が翼を広げたような、敵が入ってくれば、取り囲むと言う陣構えであった。しかし、謙信の陣構えを見た信玄は、魚鱗の陣と言って、縦に部隊を並べ、鱗の並ぶ形に立て直したと言う。
武田の武将「高坂昌信」の原作と言われる「甲陽軍艦」にこれらは詳しいが、戦いはこの後、妻女山に攻め上った信玄勢12000の部隊が川中島に合流して、さしもの謙信勢は、善光寺の方へ引き上げたと言う。 両者の戦いは5回目で、これが最後となった。
思わぬ方へと話が行ったが、ここ姨捨SAから望む善光寺平に思いを馳せるあまりの長文になった。
今朝の風景はまた一段と霞がかかって見え難いが、千曲川の川筋が見える。丁度右手のうっすらと見える山あたりが妻女山、写真の左にちらと見える山の当たりが茶臼山。正面はるか霧の彼方が善光寺。
ここからの景色を以前に撮ったものが出てきたので、少しは遠方が見えるのではないか。
ここは見晴らしが良い。長野方面に向かう時は、必ずこのSAで休憩して、ここから善光寺平を見渡す。足下を流れる千曲川沿いに位置する更埴市、4月中旬には杏子の花が村を埋める。その少し遠くには、千曲川沿いに、信玄・謙信の争った川中島が見えるはず。上杉謙信が最初に陣取った妻女山。武田信玄が上杉謙信よりも早く陣取っていた茶臼山はよく見える。
世に言う川中島の合戦(1553年)では、先ず動いたのが武田信玄であった。千曲川の西岸の茶臼山に兵を進め、上杉謙信を誘い出した形になっていた。善光寺平は上杉謙信の勢力範囲でもあった。
武田信玄は茶臼山を出て、千曲川を西から東に渡り、松代の海津城に陣取る。
上杉謙信は、これも千曲川の東にある妻女山に陣取る。両者の距離は10kmもなかった。
次の動きは、武田信玄は兵8000を持って、再び千曲川を西に渡河して、川中島を含む八幡平に進出。
上杉謙信は夜陰に乗じて、兵10000とともに、ひそかに妻女山を下る。このとき妻女山の上には、かがり火を焚き、まだ陣地に軍勢が居るが如くに擬して山を降りたのであった。
そして、これもまた千曲川を西に渡河し、音を殺して兵を進め、川中島の信玄勢8000の正面に出たという。
この上杉謙信の動きは、夜中に下山して渡河し、千曲川の河原の深い霧の中での隠密行動であった。この渡河こそ「鞭声粛々夜川を渡る」という頼山陽の詩文の情景としたい。
武田信玄が千曲川を渡河して川中島に向う時を「鞭声粛々・・」と詠ったと言う説もあるが、妻女山からは、信玄のいる海津城は全部見えるので、静かに渡る必要はないと思う。
ふと、武田信玄は夜陰の中に気配を感じたが動かなかった。縦一列に霧の中を進む謙信勢をここで叩けば簡単であったかも知れない。
しかし、この時、武田信玄は、妻女山に兵を派遣した日の早朝であり、謙信勢が既に山を降りて目前に居る事は信じられなかったであろう。
まさに長蛇を逸したのである。
それは、上杉謙信が山を降りた早朝に、武田信玄は兵12000でもって、妻女山の背後から攻め上っていたのであった。既に、上杉謙信はかがり火を残してもぬけの殻であったという情報は、まだ届いていなかったであろう。
戦いは、暁から開始された。千曲川の霧が晴れ、信玄にしてみれば不意に出現した敵であったろう。
上杉謙信は車懸かりの陣と言って、各部隊が車輪のように回転しながら順々に攻めかかったという。
武田信玄は、初め鶴翼の陣と言って、鶴が翼を広げたような、敵が入ってくれば、取り囲むと言う陣構えであった。しかし、謙信の陣構えを見た信玄は、魚鱗の陣と言って、縦に部隊を並べ、鱗の並ぶ形に立て直したと言う。
武田の武将「高坂昌信」の原作と言われる「甲陽軍艦」にこれらは詳しいが、戦いはこの後、妻女山に攻め上った信玄勢12000の部隊が川中島に合流して、さしもの謙信勢は、善光寺の方へ引き上げたと言う。 両者の戦いは5回目で、これが最後となった。
思わぬ方へと話が行ったが、ここ姨捨SAから望む善光寺平に思いを馳せるあまりの長文になった。
今朝の風景はまた一段と霞がかかって見え難いが、千曲川の川筋が見える。丁度右手のうっすらと見える山あたりが妻女山、写真の左にちらと見える山の当たりが茶臼山。正面はるか霧の彼方が善光寺。
ここからの景色を以前に撮ったものが出てきたので、少しは遠方が見えるのではないか。