新田義貞が鎌倉を攻める。
5月8日に生品神社を発った義貞は、16日には分倍(ぶんばい)河原(府中市)で幕府軍を破り、多摩川を越えている。18日には千葉氏が鎌倉を包囲している軍勢とともに、総攻撃を開始している。
三方を天然の要害で囲まれた鎌倉を、南側の海から攻める時、義貞は海の潮が引く事を祈念して、稲村ケ崎で太刀を捧げている図が絵馬になっている。新田義貞と言えばこの絵であったような。
上右の写真は参道の鳥居の前に架かる神橋である。中央には、くっきりと丸に横一の新田氏の紋が付いている。
新田の鍋の蓋、足利の釜の蓋と並び称せられる紋所である。足利氏は丸に横二の紋である。
新田の庄の表示と、横には寺尾城址の小さな碑が立っている。
新田義貞の鎌倉攻めは大勝に終わり、幕府の北条高時ら郎党800余人は、ことごとく東勝寺で自刃した。近年発掘調査によって、多数の人骨が出土している。
建武の中興と言われる後醍醐天皇の政事に反旗を翻した足利尊氏を、新田義貞と楠木正成とで、京都を追い落とし九州に敗走させた。
しかし、九州から巻き返してきた尊氏の為に神戸湊川で楠木正成の討死を目のあたりにすることになる。
尊氏はそのまま京都に入り、新田義貞は後醍醐天皇の皇子二人を奉じて、越前で次のチャンスを伺う。旗揚げから3年目の建武3・延元元年(1336年)の事であった。
翌年、敦賀の金崎城も足利軍に落とされる。さらに翌年(1338年)福井市の藤島城への援軍に駆けつけるとき、灯明寺畷で戦死をした。それを聞いた愛妻勾当内侍(こうとうのないし)は入水し、大津市の野神神社に祀られている。
新田の庄での旗揚げから5年目のことであった。彼の首は京都嵯峨野の滝口寺の境内に葬られている。
鎌倉幕府を倒した功労者だったが、その死はあまりにもあっけなく「犬死」であったとさえ言われた。
5月8日に生品神社を発った義貞は、16日には分倍(ぶんばい)河原(府中市)で幕府軍を破り、多摩川を越えている。18日には千葉氏が鎌倉を包囲している軍勢とともに、総攻撃を開始している。
三方を天然の要害で囲まれた鎌倉を、南側の海から攻める時、義貞は海の潮が引く事を祈念して、稲村ケ崎で太刀を捧げている図が絵馬になっている。新田義貞と言えばこの絵であったような。
上右の写真は参道の鳥居の前に架かる神橋である。中央には、くっきりと丸に横一の新田氏の紋が付いている。
新田の鍋の蓋、足利の釜の蓋と並び称せられる紋所である。足利氏は丸に横二の紋である。
新田の庄の表示と、横には寺尾城址の小さな碑が立っている。
新田義貞の鎌倉攻めは大勝に終わり、幕府の北条高時ら郎党800余人は、ことごとく東勝寺で自刃した。近年発掘調査によって、多数の人骨が出土している。
建武の中興と言われる後醍醐天皇の政事に反旗を翻した足利尊氏を、新田義貞と楠木正成とで、京都を追い落とし九州に敗走させた。
しかし、九州から巻き返してきた尊氏の為に神戸湊川で楠木正成の討死を目のあたりにすることになる。
尊氏はそのまま京都に入り、新田義貞は後醍醐天皇の皇子二人を奉じて、越前で次のチャンスを伺う。旗揚げから3年目の建武3・延元元年(1336年)の事であった。
翌年、敦賀の金崎城も足利軍に落とされる。さらに翌年(1338年)福井市の藤島城への援軍に駆けつけるとき、灯明寺畷で戦死をした。それを聞いた愛妻勾当内侍(こうとうのないし)は入水し、大津市の野神神社に祀られている。
新田の庄での旗揚げから5年目のことであった。彼の首は京都嵯峨野の滝口寺の境内に葬られている。
鎌倉幕府を倒した功労者だったが、その死はあまりにもあっけなく「犬死」であったとさえ言われた。