新田も足利も笠置山を攻めている。
両者とも、鎌倉の北条氏に所属する武将であった。足利の方が鎌倉では羽振りは良かった。
都では、後醍醐天皇が幕府から政治の実権を取り戻そうと動き始めた。六波羅探題は「天皇の謀叛」と早馬で鎌倉に知らせた。
謀叛と言う言葉が面白いと思う。「天皇に謀叛」はよくあるが、逆になっている。
それは兎も角、天皇は京都の南の端にある笠置山に立てこもったが、幕府軍の前には敵ではなかった。後醍醐天皇は隠岐に流された。
やがて、後醍醐天皇は播磨の赤松氏とか伯耆(ほうき)の名和長年らの支持もあって、島を脱出して大山山系の船上山に陣を構えた。1333年のことである。
船上山は標高616mとそれほど高くはないが、火山で溶岩による崖で周りが囲まれている。頂上は平らな台地となっており智積寺という寺があり、そこを行宮(あんぐう)とした。
この辺りでも、近くでは幕府軍方の者も居り、戦いが起こっている。
船上山は険しい。
両者とも、鎌倉の北条氏に所属する武将であった。足利の方が鎌倉では羽振りは良かった。
都では、後醍醐天皇が幕府から政治の実権を取り戻そうと動き始めた。六波羅探題は「天皇の謀叛」と早馬で鎌倉に知らせた。
謀叛と言う言葉が面白いと思う。「天皇に謀叛」はよくあるが、逆になっている。
それは兎も角、天皇は京都の南の端にある笠置山に立てこもったが、幕府軍の前には敵ではなかった。後醍醐天皇は隠岐に流された。
やがて、後醍醐天皇は播磨の赤松氏とか伯耆(ほうき)の名和長年らの支持もあって、島を脱出して大山山系の船上山に陣を構えた。1333年のことである。
船上山は標高616mとそれほど高くはないが、火山で溶岩による崖で周りが囲まれている。頂上は平らな台地となっており智積寺という寺があり、そこを行宮(あんぐう)とした。
この辺りでも、近くでは幕府軍方の者も居り、戦いが起こっている。
船上山は険しい。