昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

高氏から尊氏へ01

2005-07-15 | 歴史・文化遺産
 新田も足利も笠置山を攻めている。
 両者とも、鎌倉の北条氏に所属する武将であった。足利の方が鎌倉では羽振りは良かった。

 都では、後醍醐天皇が幕府から政治の実権を取り戻そうと動き始めた。六波羅探題は「天皇の謀叛」と早馬で鎌倉に知らせた。
謀叛と言う言葉が面白いと思う。「天皇に謀叛」はよくあるが、逆になっている。

 それは兎も角、天皇は京都の南の端にある笠置山に立てこもったが、幕府軍の前には敵ではなかった。後醍醐天皇は隠岐に流された。
やがて、後醍醐天皇は播磨の赤松氏とか伯耆(ほうき)の名和長年らの支持もあって、島を脱出して大山山系の船上山に陣を構えた。1333年のことである。

船上山は標高616mとそれほど高くはないが、火山で溶岩による崖で周りが囲まれている。頂上は平らな台地となっており智積寺という寺があり、そこを行宮(あんぐう)とした。
 この辺りでも、近くでは幕府軍方の者も居り、戦いが起こっている。

船上山は険しい。


鑁阿(ばんな)寺

2005-07-13 | 国内旅行
 足利学校の傍に鑁阿(ばんな)寺がある。
 八幡太郎義家の嫡流足利一族の住まいした足利の庄の中枢にある。下野国で栃木県である。渡良瀬川を挟んで、新田の庄は上野国で群馬県である。
 この二つはそれぞれシモツケ・コウズケであり「ケ」の国である。これら二つの国を合わせて「両毛(りょうもう)」とも言う。JR両毛線が走る。
 新田・足利ともに、日本国中を駆け回って物語を創ってきた。鎌倉から室町への時代の変動の表舞台に立っていたのだった。
 可愛い楼門の手前の堀に架かる橋があるが、その軒の上には丸に二の字の足利の紋所が付いている。これが通称釜の蓋である。


 ここも足利学校のように周囲が堀に囲まれている。鑁阿というのは、この寺を創建した義兼(源義家の曾孫で足利氏の2代目)が晩年出家して、鑁阿と号したことによる。


この寺のある場所が、足利氏一族の住んでいたとされる所である。土地の人たちは「ばんなじ」と言うよりも「大日さま」と呼んで親しんでいる。右の写真は大日堂とも言う。
 真言密教の世界観の中心は、阿弥陀如来でも釈迦如来でもなく大日如来なのである。密教の曼荼羅図は大日如来が中心に来る。
 奈良の南都六宗などの既存の仏教からの脱出を図った桓武天皇は、都を奈良から、長岡京・平安京へと遷都した。そのときに既存の仏教に変わるものとして、最澄・空海を中国に派遣し、真言・天台の密教を取り入れたものである。いわば新興仏教であった。この関東の地でも真言宗がブイブイ言わしていたのだからたいしたものだ。
 余談であるが、空海は、中国への正式に派遣されたのでなく、その従者として付き添って大陸に渡ったという。彼は四国ではその才能が芽生えていたが、中国の仏教への思い去りがたく、内々での派遣であったと思う。


 境内入口付近にあった案内図である。街中のお寺は、住民の憩いの場所であり、公園になっており、広場もあった。


多宝塔であるが、これが唯一お寺らしい雰囲気を作っていた。屋根がちらっと見えるのが大日堂である。右は、駐車場横の案内所にあった尊氏の鎧で、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」で使われた物。

足利学校その2

2005-07-11 | 国内旅行
 足利学校の教育内容は孔子の教えが中心だった。
 もともと足利の庄は鎌倉時代から、鑁阿寺(ばんなじ)を中心にして易学の講書などと共に、足利流の軍学などの講義がなされていたようで、関東北部での地方文化の中心地として好学の風があったと言う。

校門を入ったところの庭。芝生の土手の向こうに講堂などが見える。学校周囲の堀が見えている。

 初代校長を招いた上杉氏とその子孫は学校を保護し、学校も熱心に講義をした。
 第7代校長九華(1587没)の頃には、関東のみならず全国から人が集まるようになった。講義の内容も易学を中心にしたものになったと言う。
「孝経」(孔子が孝道について述べたもの)
「論語」(孔子の言行、孔子と弟子らとの問答)
「五経」(儒教の中心を作る五種の経典で「易・書・詩・礼・春秋」であったが、
     唐時代に「易経・書経・詩経・礼記・春秋」を五経とした)
「老荘」(老子と荘氏の言葉)
 など、その他「兵法書」「医学書」をはじめ「和漢朗詠集」などに及び、刀剣の類も製作され、軍事を中心とする総合大学の様相を見せていたらしい。
 全国から学校へ来た者が郷里へ帰って花開かせたのである。
 特に、中世の武家では軍事・政治・一般生活の中でも占筮(せんぜい)といって、筮竹によって方角を占うのが第一に必要な事であった。
 この易学を講じる者は「兵経七書」などの兵法書をも講じることが出来ることになる。
 それで、各地に割拠する豪族は易学、兵法書を講ずる師を求めたという。その要求を満たす当代唯一の教学機関が足利学校であったという。

「かなふり松質問箱」は先生への質問を入れる投書箱


教室になった建物前の庭、絵図に基づいて復元。


さてこれは?孔子の教えです。「中庸」とか「腹八分目」とかを説いている。「慢心」を戒める。



孔子の像。校内には孔子の聖堂がある。


足利学校の門前の道標。「子曰くふるきを温めて新しきを知る、以て師と為すべし」



足利学校その1

2005-07-09 | 国内旅行
 足利市は栃木県。
 群馬県新田町から渡良瀬川を少し下り、川を渡ると足利市になる。足利氏一族の故郷である。
  右:この渡良瀬川こそは、日本公害史に残る足尾銅山を上流域とする川である。

足利市で見逃せないのが、足利学校跡で多くの観光客が訪れている。
 創建は、諸説あるようだが有力なのが、足利義兼の頃らしい。義兼は、かの泣く子も黙る八幡太郎源義家の孫で、源氏の姓から足利を名乗った人物である。尊氏から7代の祖である。
 だから、日本最古の学校として位置付けられている。記録に残っているのをみると、室町時代に上杉憲実が書籍を寄進し、また、学長制度をつくるなど足利学校中興に勤めたと言う。

鎌倉の建長寺の住持であった玉隠永興(玉偏に興)は、長享元年(1487)の詩文の中にこう書いている。
「足利の学校には諸国から学徒が集まり学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」
 
 また、天文19年(1550)に訪れたフランシスコ=ザビエルは「日本国中最も最大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され「学徒三千」と言われるほどだったそうです。明治5年に閉校となりました。

学校の校門である。

新田義貞02

2005-07-08 | 国内旅行
新田義貞が鎌倉を攻める。
 5月8日に生品神社を発った義貞は、16日には分倍(ぶんばい)河原(府中市)で幕府軍を破り、多摩川を越えている。18日には千葉氏が鎌倉を包囲している軍勢とともに、総攻撃を開始している。
 三方を天然の要害で囲まれた鎌倉を、南側の海から攻める時、義貞は海の潮が引く事を祈念して、稲村ケ崎で太刀を捧げている図が絵馬になっている。新田義貞と言えばこの絵であったような。

上右の写真は参道の鳥居の前に架かる神橋である。中央には、くっきりと丸に横一の新田氏の紋が付いている。
新田の鍋の蓋、足利の釜の蓋と並び称せられる紋所である。足利氏は丸に横二の紋である。



新田の庄の表示と、横には寺尾城址の小さな碑が立っている。


新田義貞の鎌倉攻めは大勝に終わり、幕府の北条高時ら郎党800余人は、ことごとく東勝寺で自刃した。近年発掘調査によって、多数の人骨が出土している。

 建武の中興と言われる後醍醐天皇の政事に反旗を翻した足利尊氏を、新田義貞と楠木正成とで、京都を追い落とし九州に敗走させた。

 しかし、九州から巻き返してきた尊氏の為に神戸湊川で楠木正成の討死を目のあたりにすることになる。
 尊氏はそのまま京都に入り、新田義貞は後醍醐天皇の皇子二人を奉じて、越前で次のチャンスを伺う。旗揚げから3年目の建武3・延元元年(1336年)の事であった。

 翌年、敦賀の金崎城も足利軍に落とされる。さらに翌年(1338年)福井市の藤島城への援軍に駆けつけるとき、灯明寺畷で戦死をした。それを聞いた愛妻勾当内侍(こうとうのないし)は入水し、大津市の野神神社に祀られている。

 新田の庄での旗揚げから5年目のことであった。彼の首は京都嵯峨野の滝口寺の境内に葬られている。

 鎌倉幕府を倒した功労者だったが、その死はあまりにもあっけなく「犬死」であったとさえ言われた。

新田の庄01

2005-07-06 | 国内旅行
 新田義貞旗揚げの地。
 後醍醐天皇の綸旨によって、新田義貞は鎌倉幕府を終焉へと追い込んだ。彼は、ここ群馬県赤城山南麓の新田の庄で、北条氏への不満を持つ武士集団を糾合し鎌倉へと出発した。
 すぐ北を流れる渡良瀬川を挟んで足利氏の故郷がある。両者とも、歴とした源氏の流れとして、鎌倉幕府の武将であった。
 かつて勇名を轟かせた八幡太郎義家の孫源義重が新田を名乗り、その7代目が新田義貞である。また、同じく孫の源義康が足利を名乗り、その7代目が足利高氏である。
 新田義貞(33)がここ生品(いくしな)神社で倒幕の兵を挙げたのは、正歴2・元弘3年(1333年)5月8日の事で、足利高氏の謀叛の日よりも、10日後であった。



田毎の月05

2005-07-05 | 国内旅行
名月の里で想う川中島の合戦。

 ここは見晴らしが良い。長野方面に向かう時は、必ずこのSAで休憩して、ここから善光寺平を見渡す。足下を流れる千曲川沿いに位置する更埴市、4月中旬には杏子の花が村を埋める。その少し遠くには、千曲川沿いに、信玄・謙信の争った川中島が見えるはず。上杉謙信が最初に陣取った妻女山。武田信玄が上杉謙信よりも早く陣取っていた茶臼山はよく見える。

 世に言う川中島の合戦(1553年)では、先ず動いたのが武田信玄であった。千曲川の西岸の茶臼山に兵を進め、上杉謙信を誘い出した形になっていた。善光寺平は上杉謙信の勢力範囲でもあった。

 武田信玄は茶臼山を出て、千曲川を西から東に渡り、松代の海津城に陣取る。
 上杉謙信は、これも千曲川の東にある妻女山に陣取る。両者の距離は10kmもなかった。

 次の動きは、武田信玄は兵8000を持って、再び千曲川を西に渡河して、川中島を含む八幡平に進出。
 上杉謙信は夜陰に乗じて、兵10000とともに、ひそかに妻女山を下る。このとき妻女山の上には、かがり火を焚き、まだ陣地に軍勢が居るが如くに擬して山を降りたのであった。
 そして、これもまた千曲川を西に渡河し、音を殺して兵を進め、川中島の信玄勢8000の正面に出たという。

 この上杉謙信の動きは、夜中に下山して渡河し、千曲川の河原の深い霧の中での隠密行動であった。この渡河こそ「鞭声粛々夜川を渡る」という頼山陽の詩文の情景としたい。

 武田信玄が千曲川を渡河して川中島に向う時を「鞭声粛々・・」と詠ったと言う説もあるが、妻女山からは、信玄のいる海津城は全部見えるので、静かに渡る必要はないと思う。

 ふと、武田信玄は夜陰の中に気配を感じたが動かなかった。縦一列に霧の中を進む謙信勢をここで叩けば簡単であったかも知れない。
 しかし、この時、武田信玄は、妻女山に兵を派遣した日の早朝であり、謙信勢が既に山を降りて目前に居る事は信じられなかったであろう。

 まさに長蛇を逸したのである。

 それは、上杉謙信が山を降りた早朝に、武田信玄は兵12000でもって、妻女山の背後から攻め上っていたのであった。既に、上杉謙信はかがり火を残してもぬけの殻であったという情報は、まだ届いていなかったであろう。

 戦いは、暁から開始された。千曲川の霧が晴れ、信玄にしてみれば不意に出現した敵であったろう。

 上杉謙信は車懸かりの陣と言って、各部隊が車輪のように回転しながら順々に攻めかかったという。
 武田信玄は、初め鶴翼の陣と言って、鶴が翼を広げたような、敵が入ってくれば、取り囲むと言う陣構えであった。しかし、謙信の陣構えを見た信玄は、魚鱗の陣と言って、縦に部隊を並べ、鱗の並ぶ形に立て直したと言う。

 武田の武将「高坂昌信」の原作と言われる「甲陽軍艦」にこれらは詳しいが、戦いはこの後、妻女山に攻め上った信玄勢12000の部隊が川中島に合流して、さしもの謙信勢は、善光寺の方へ引き上げたと言う。 両者の戦いは5回目で、これが最後となった。

思わぬ方へと話が行ったが、ここ姨捨SAから望む善光寺平に思いを馳せるあまりの長文になった。
 今朝の風景はまた一段と霞がかかって見え難いが、千曲川の川筋が見える。丁度右手のうっすらと見える山あたりが妻女山、写真の左にちらと見える山の当たりが茶臼山。正面はるか霧の彼方が善光寺。


ここからの景色を以前に撮ったものが出てきたので、少しは遠方が見えるのではないか。

田毎の月04

2005-07-04 | 国内旅行

 棚田と言うのは、中国のように耕して天に至ると言わないまでも、全国あちこちにあるわけだが、絵になるのは能登の輪島の千枚田が有名である。
 だから、広重を姨捨(更埴)でなく、千枚田に連れて行くと、数の多さに眼が廻わってノイローゼになっただろうて。この写真はSAにあったテレホンカードの図柄である。
 
 ここに来た芭蕉も、姨捨に行くと姨に出遭える、そして、いにしえの話でも聞けるかと期待して来たのかも知れない。しかし、姨に出遭えなかった事に案外ほっとしたろう。今夜、空に輝いている月は姨を知っているのではないか。さぞや、その月と語り合い光を身に受けながら、旅の心を癒してくれたろう。

田毎の月03

2005-07-03 | 国内旅行
 月に思う。
 誰が何処で見ても、月は同じ姿で見える。それが三日月であっても、満月であっても、同じ時刻には同じに見える。月を眺めて故郷を思う人や、はたまた遠くで月光に濡れているであろう愛人を偲んで静かに夜を思うのである。霜が降りたように真っ白に輝く草木を前にして、わが身を振り返るひとときでもある。


これは、レストランの壁にかけてあった写真の一枚である。技術的なことはさておいて、棚田がこのように見えるTPOへの追求に感動する。さらにもう一枚。

これは、ここ姨捨SAから、月光に浮かび上がる善光寺平を俯瞰したものである。

田毎の月02

2005-07-02 | 国内旅行


 広重もここで棚田に写る月を見たことだろう。
 この画像は、レストランの壁に掲げてあった写真を貰ったもの。いつかは所蔵している興正寺にお参りして拝見したい。
 こんな風に月の影を見ることは不可能である。この絵の様に見たいならば、目線を動かさないと駄目なんだ。歩いてみるのに限る。昔、「私が歩けばお月様も歩く」と読んだ事がある。
 これを写真に撮ろうとするなら、昆虫の複眼レンズが必要だ。この世界になると、感じた侭を表現出来るのは写真よりも、絵画が優れている。

 ところで、7月からバックの画面(テンプレート)を夏向きにしたつもり。