どんこの空(そら)に 。

きっと何かが足りない~それを探す日記~

紙ヒコーキ。

2007-09-02 | Sandstorm

小学生の頃、私のクラスで紙ヒコーキが流行ったことがあった。
たかが紙ヒコーキと言っても、これが結構みんなハマった。
4階建ての教室の高いところから飛ばしてその距離を競うような遊び方ではなく、運動場の真ん中に立って真上に紙ヒコーキを放り投げ、その滞空時間を競う。
これが結構面白い。
もちろん紙ヒコーキも”コンコルド型”のような空気を切って進むような形のものではなく、どちらかと言えば野球の”ホームベース型”。
いかに運動場の上昇気流を捉えるかが勝負の分かれ目で、まれに優秀なものは平気で1分近く上空を漂っていたものもあった。
そんな優秀な紙ヒコーキが折れたときは、幼いながら鼻高々でみんなの前で誇らしかったものだ。
今ではさすがにやらないが、そんな今になっても、機会があってやってみたいと思うくらい単純な遊びながらも結構面白いものだと思う。
残念なのは、折り方を忘れてしまったこと。
もう30年近く前のことである。
その楽しかったこと、初めて飛ばすヒコーキにドキドキワクワクしたこと、皆の前で誇らしかったことは、今でも心のどこかに残っている。
でも、肝心カナメの紙ヒコーキの折り方の記憶がない。
少々寂しくもあるが、まあ、そんなものだ。


そんな紙ヒコーキの話で、友人と口論になったことがあった。
確か、中学生の頃だったと思う。
塾へ向かう道、私とその友人は、なぜか紙ヒコーキの話題になった。
たぶん私の方から話を切り出したんだと思う。
その話の中でひとつ、友人が決して信じなかったことがある。
それは、紙ヒコーキが空中に静止するように浮遊することがあるということだ。
確かに大部分の紙ヒコーキは、どんなに優秀なものでも、風に漂いゆっくりゆっくりと旋回しながら地上を目指す。
それが自然の理だから。
しかしほんの稀に、ピカイチに折った紙ヒコーキが偶然にもその時の風や気流に最高にマッチングした時、その紙ヒコーキはまるでUFOのようにその場で十秒~二十秒ほど静止する(ように見える?)ことがあるのだ。
当然そんな時には、クラスのみんなから大歓声が上がったものだった。
それをその友人は、絶対に信じなかった。
そんなことあるわけがない。
その一点張り。
もちろん彼は別の小学校出身で、紙ヒコーキをマトモに折ったことなどない。
むろん、飛んでいるところなど見たこともない。
その時、私はその友人の前で紙ヒコーキを折って飛ばしたような記憶がある。
塾の前の道路。
しかしながら何度やっても、その時の紙ヒコーキは一度も上空に立ち止まることはなかった。
そう、それは、奇跡にも近い確率でしか起こりえないものであったのだから、今思えば、当然と言えば当然の結果である。


悔しかった。
信じてもらえないことが悔しかったのか、そこでピカイチのものが折れなかったことが悔しかったのか。
私の感情の道筋の記憶も、今となっては定かではない。
当然その場では、私がデタラメを言っているという結論になってしまったのも仕方のないことである。
真実がどうであれ、そのとき私は何も言っても彼の前では敗者であった。
それは、私の心に今でも残っているモノクロームの思い出。
それはそれで、いまさらどうでもいいことだ。
信じようと信じまいと、それはその人の自由だと思えるようにもなった。
やがて、私はそれ以来、紙ヒコーキの話は、誰にもしなくなったように思う。
それでも、私は知っている。。。
紙ヒコーキが、かくも優雅に、そしてその繊細で危ういバランスを美しくも保ちながら、抜けるような青空と白い雲を背景にして上空を静かに漂うことを。


思うに、今でもその友人は紙ヒコーキは上空で静止することはないと信じているのだろうか?
まあ、たぶんそれ以前に、そんなこと全く考えることすらもないのだろう。
彼の人生にとって、そんなことを考えることすら無意味なことであるに違いない。
それでも、私は覚えている。。。
紙ヒコーキが、かくも優雅に、そしてその繊細で危ういバランスを美しくも保ちながら、抜けるような青空と白い雲を背景にして上空を静かに漂っているあの風景を。




あの日の私に、ありがとう。
そんな忘れかけてた、紙ヒコーキの話。。。
あなたは、信じますか?(笑)






最新の画像もっと見る