どんこの空(そら)に 。

きっと何かが足りない~それを探す日記~

その日。

2010-08-08 | Sandstorm










7月25日。
夕刻。
その日の空をなぜか撮りたくなった。
日暮れあと。
夕凪。


















バカみたいに撮りまくった。
まだこの時は感情の波は小さかった。
あまりにも大きな喪失感のせいだろうか。






























残したかった?
埋めたかった?
自分でもわからない。
少し落ち着いて、紹介したくなった。
7月25日の空を。









ここに7月25日未明に書き始めたブログがある。
丁度書いているときに、病院から連絡があった。
朝6時半頃。
すぐ来て下さいとのことだった。
外はもう真夏の明るさで、セミがけたたましく鳴いていた。







壊、解、改。










2010年、夏の中京競馬場。





















リニューアルへ向けて改装中。





















壊。





















解。





















改。





















抜けるような青空。





















生まれ変わるために、壊すのだ。
ただ、そこには、これまで大切にしてきたものがある。
そのとき、人はどうするのか。
ときにそれは、悲しく新しい時代に取り残される。
壊。
解。
そして、改。
それは、決して目に見えるものだけではないだろう。
人の心も、同じこと。
ただそれは、建物のように容易ではない。





















彼女には、むすめの匂いがした。
綺麗で純粋で、真っ直ぐだった。
でもいつしか気付かないうちに、むすめは女の匂いを醸し出す。
そんな日はきっと来る。
そうなったら、取り残された男はただ逃げるしかないのかも知れない。
真っ当に生きていこうと思うのなら。
どちらが正しいかなんてことは、意味のないことのように思える。
壊すのは、今なのかも知れない。
いつも弱いのは、古い方なのだろう。






















書きかけの日記。
これを書いているときに、母は急変したのか。
そう思うと・・・、色々なことを考えてしまう。
臨終には間に合った。
ただ、わかってくれたかどうかはわからない。
見ての通り、前日の土曜日は中京競馬場へ行った。
最後まで放蕩息子だった。
帰りに病院へ寄った。
まだ全然普通だった。
すでに来ていた父と夕飯の話になり、土用の丑が近いのでうなぎにしようと話して母と別れた。
じゃあね・・・のおぼつかないハイタッチのポーズ。
それが最後だった。
その時間、病院の裏手では盆踊り大会なのか、太鼓と囃子の音色が響いていた。
母は最後の夜、それをひとり聞いていたのだろうか。
最後は苦しかったのだろうか。
いろいろなことが頭をよぎる。









その日の朝、かけつけた病院の主治医の先生から、検査解剖の要請があった。
承諾。
難病の治療に役立ってもらえることをたぶん母も望んだと思う。
25日の晩に、ようやく母は自宅に戻ることができた。
葬儀屋の配慮で、自宅での仮通夜。
部屋には、母と旅行へ出かけたときのパネルを飾った。
いつものベッドに横たわる母は、まるで今にも目を開けてくれるような気がした。
本当に。
26日、御通夜。
そこでようやく、大きな感情の波がやってきた。
最初に焼香に立ち、母と向き合うと涙が止まらなくなった。
自分でも抑えきれないものが、心の底から湧き出た。
27日、葬儀。
喪主としての責任感は、少なからず気持ちを保たせてくれた。
自分が少し落ち着くと、父のことが気になった。
涙を見せる父を初めて見た。
余計に泣けなくなった。
自分がしっかりしなければ。
たぶん世の中はそういうものなのだろう。









今は役所やら病院やら、また保険やら年金やらと何かと細々と手続きなどでせわしい。
法事や香典返しのことなども考えなければならない。
もちろん仕事も再開している。
悲しんでばかりもいられない。
生きている人は、いなくなった人の分も生きていかなければならないから。
敬うことも忘れず、なお生きている喜びを精一杯謳歌する。
それは義務に近い。
そんな風に思えた。
まだ少し、早すぎるような気もするが・・・。
母の子らしいといえば、そうなのかも知れない。










少しでも、その日のこと、その後のことをどこかに残したくなった。
自分でも忘れないために。
また、誰かに聞いてもらいたくなった。
自分自身を誤魔化さないために。
これは、ただそれだけの日記である。

























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