
7月25日。
夕刻。
その日の空をなぜか撮りたくなった。
日暮れあと。
夕凪。




バカみたいに撮りまくった。
まだこの時は感情の波は小さかった。
あまりにも大きな喪失感のせいだろうか。








残したかった?
埋めたかった?
自分でもわからない。
少し落ち着いて、紹介したくなった。
7月25日の空を。

ここに7月25日未明に書き始めたブログがある。
丁度書いているときに、病院から連絡があった。
朝6時半頃。
すぐ来て下さいとのことだった。
外はもう真夏の明るさで、セミがけたたましく鳴いていた。
壊、解、改。

2010年、夏の中京競馬場。

リニューアルへ向けて改装中。

壊。

解。

改。

抜けるような青空。

生まれ変わるために、壊すのだ。
ただ、そこには、これまで大切にしてきたものがある。
そのとき、人はどうするのか。
ときにそれは、悲しく新しい時代に取り残される。
壊。
解。
そして、改。
それは、決して目に見えるものだけではないだろう。
人の心も、同じこと。
ただそれは、建物のように容易ではない。

彼女には、むすめの匂いがした。
綺麗で純粋で、真っ直ぐだった。
でもいつしか気付かないうちに、むすめは女の匂いを醸し出す。
そんな日はきっと来る。
そうなったら、取り残された男はただ逃げるしかないのかも知れない。
真っ当に生きていこうと思うのなら。
どちらが正しいかなんてことは、意味のないことのように思える。
壊すのは、今なのかも知れない。
いつも弱いのは、古い方なのだろう。

書きかけの日記。
これを書いているときに、母は急変したのか。
そう思うと・・・、色々なことを考えてしまう。
臨終には間に合った。
ただ、わかってくれたかどうかはわからない。
見ての通り、前日の土曜日は中京競馬場へ行った。
最後まで放蕩息子だった。
帰りに病院へ寄った。
まだ全然普通だった。
すでに来ていた父と夕飯の話になり、土用の丑が近いのでうなぎにしようと話して母と別れた。
じゃあね・・・のおぼつかないハイタッチのポーズ。
それが最後だった。
その時間、病院の裏手では盆踊り大会なのか、太鼓と囃子の音色が響いていた。
母は最後の夜、それをひとり聞いていたのだろうか。
最後は苦しかったのだろうか。
いろいろなことが頭をよぎる。

その日の朝、かけつけた病院の主治医の先生から、検査解剖の要請があった。
承諾。
難病の治療に役立ってもらえることをたぶん母も望んだと思う。
25日の晩に、ようやく母は自宅に戻ることができた。
葬儀屋の配慮で、自宅での仮通夜。
部屋には、母と旅行へ出かけたときのパネルを飾った。
いつものベッドに横たわる母は、まるで今にも目を開けてくれるような気がした。
本当に。
26日、御通夜。
そこでようやく、大きな感情の波がやってきた。
最初に焼香に立ち、母と向き合うと涙が止まらなくなった。
自分でも抑えきれないものが、心の底から湧き出た。
27日、葬儀。
喪主としての責任感は、少なからず気持ちを保たせてくれた。
自分が少し落ち着くと、父のことが気になった。
涙を見せる父を初めて見た。
余計に泣けなくなった。
自分がしっかりしなければ。
たぶん世の中はそういうものなのだろう。

今は役所やら病院やら、また保険やら年金やらと何かと細々と手続きなどでせわしい。
法事や香典返しのことなども考えなければならない。
もちろん仕事も再開している。
悲しんでばかりもいられない。
生きている人は、いなくなった人の分も生きていかなければならないから。
敬うことも忘れず、なお生きている喜びを精一杯謳歌する。
それは義務に近い。
そんな風に思えた。
まだ少し、早すぎるような気もするが・・・。
母の子らしいといえば、そうなのかも知れない。
少しでも、その日のこと、その後のことをどこかに残したくなった。
自分でも忘れないために。
また、誰かに聞いてもらいたくなった。
自分自身を誤魔化さないために。
これは、ただそれだけの日記である。
