
時は流れている。
留まることはない。

パソコンを購入した。
光回線と契約した。
工事だけは完了したが、ただ未だに一度も繋げていない。
新しいパソコンは3ヶ月眠ったままだ。

今回も古いパソコンで開けている。
ブログ画面を開くのは、半年以上ぶりだ。
だいたい何を検索するにも、携帯ばかりになっている。
時は流れる。
意識もなく時は流れても、ここに来ると時の流れを感じる。

相変わらず、年に何度か旅に出ている。
相変わらず、競馬は続けている。
相変わらず、お金は劇的に増えたりはしない。

身体を壊した。
原因不明。
CTやMRIに数万円費やしたが、結局は何もわからなかった。
生活習慣病が要因であることは、何となく察しがつくのだが。
外科も内科も泌尿器科も、医者が信じるのは数値だけのようだ。
それだけ世間は、ハッタリ野郎が多いのだろうか。
それとも、病は気からということだろうか。

痛い。
初めは自分でも何もわからない状態で恐怖心もあった。
突然の痛みへの驚きは、余計に痛さを感じさせるものだ。
数年前、尿管結石をやった。
あの時のような激しい痛みではない。
やがて、身体も心も痛みに慣れてくる。

痛くなくなったわけではない。
起き上がるのも苦痛だ。
でも、どうしようもない。
医者が何ともないというのだから。

しばらくはこのままだ。
そうやって数ヶ月が経った。
やがて劇的に症状が酷くなれば、その時はわかるだろう。
それでいいと思う。
仕事もある。
楽しみもある。
だから、それまではこのままだ。
人間なんて、そんなものでいいのだと思う。

写真は、香嵐渓に紅葉狩りに行った時のもの。
11月中旬。
秋だった。
世界はもう秋だった。

歳を重ねると、感じ方も違ってくるようだ。
何においてもそう。
自分自身も、他人から見ればもう秋なのだろうか。
豊穣の秋。
もう若くない、というのが口癖になった。
それは決して歳を取ったことを嘆いているのではない。
もしかしたら、自慢しているのかも知れない。

最近は、めっきり涙腺が緩くなった。
それはたぶん、歳のせいであろう。
秋。
心も秋。
世界には、もうすでに冬が来ているようだが。

ゴルフ熱。
ただ、身体が思うに任せない。
口惜しいというしかない。
原因不明の両脇腹痛もあるが、それよりも大きな要因はあるだろう。
体力、筋力は、自分では気付かないうちに、相当衰えているようだ。
10年ほど前までは、飛距離だけには自信があった。
10年間の空白は、その衰えを感じさせるのに十分なギャップだ。
アタマでは思い出せても、身体が悲鳴を上げる。
体幹の動きは同じようにできても、部分部分から壊れ始めるらしい。
左手首、右肩、右足首が、数日であっけなく壊れた。

環境も劇的に変わった。
未だパーシモンのドライバーを振り回しているゴルファーなど皆無だ。
マッスルバックのアイアンも、プロですら使っている選手は少ない。
パターは、ネオマレットなる異様な代物が流行りだとか。
そんな風に感じるのは、たぶん自分が取り残されている証なのだろう。
時は流れている。
私は止まっていた。
それだけのことだ。

ブログをしばらく休もうと思った。
自分のために。
綴ることは発見もある。
気付かなかった自分を気付かせてくれる。
ただ危険性もある。
自分が自分を偽る。
理想の自分が現実の自分とズレてくる。
一度放った言葉は、化石にように世界に表層に残る。
自分が縛られる。

人とは変わるものだ。
心とは動くものだ。
言葉はそこに残って固まる。
無論、それを言葉で覆すこともできる。
ある意味、物理的には容易なことだ。
ただ、世界をひとりで生きているわけではない。
言葉はあるとき、他人から証明を求められる。
信用を必要とする。

ブログは休み。
これからもずっと。
その一瞬一瞬の刹那を綴っていくために、空白はどれくらい必要なのだろうか。
そうして時は流れる。

光と影。
それを演出するには、どれくらいの時間が必要なのだろう。
それとも、どれくらいの言葉が必要なのだろう。
ことの真理は決してひとつではない。
それを表現するのに、どれくらいの理解を求めれば済むのだろう。

この季節のように。
すべては移ろう。
この心のように。

キングスゾーン号。
未だ健在なり。
考える会の発足など、名古屋競馬に新たな風も吹いているようだ。

自分も進んでいかなければ。
ただ、時に流されていくだけだろう。
時は流れている。
留まることはない。
また思い出した頃に、何かを綴っていきたい。
また少し、進んでいることを信じて。