どんこの空(そら)に 。

きっと何かが足りない~それを探す日記~

銭湯。

2020-08-14 | Sandstorm



同じ学区内にある馴染みの銭湯がなくなった。
同じ学区内とはいえ毎日通勤時に通る道とは方向が逆なので、あったはすの場所がサラ地になっているのに今日の今日まで気付かなかった。
何を隠そう、私の実家は母が難病になる約20年前まで家風呂がなかった。
つまり、大学生になり一人暮らしを始める19歳まで、生まれてからずっと毎日銭湯通いの人だったのである。
卒業し社会人になり異動で関東圏に行くまでの4年間も再びお世話になった。
だから思い入れも深い。
夏も冬も、雨の日も雪の日も、父や母にしがみついていたチビガキの頃も一人気難しい思春期の頃も、ほとんど毎日欠かさず通った場所だ。
週休日に行っていたもう一軒の銭湯と共に、自分の人生を振り返った時に無くてはならない思い出の場所。
もう一軒は随分と前にすでに店じまいしており、これで学区内の銭湯は近年できたスーパー銭湯のみとなった。



コロナ禍の影響かも知れないが、まあ聞いていたところではご主人の息子さんも後を継ぐような感じではなかったから、いずれこういう日が来ることにはなったのだろう。
第一、この時代に家風呂がない家庭などほとんどない。
そんな自宅とて、母が難病に倒れた時に父が母の負担を減らそうと無理して家風呂を作ったので、最近はお世話になることは皆無になっていた。
自分も関東から実家に戻ってから、家風呂が故障した時に一度だけ行ったきりである。



ただ、そういった生い立ちからか、自分は今でもスーパー銭湯や健康ランドに行くのが大好きである。
しかしながら、昔のように毎日銭湯へ通うのとは意味合いが違う。
あの頃は銭湯が生活の一部であり、閉店時間ともなれば門限があるのと同じであったりもする。
番台のオバちゃんには毎日会うことになり、毎日話をすることにもなる。
逆を言えば、幼稚園に入る前から大学生になるまで、嬉しい日も悲しい日も毎日自分の顔を見てくれる人がそこにいたということだ。
ナゴヤ球場でジャイアンツ戦があるときは、応援団についていた自分をいつも閉店ギリギリまで待ってくれていたりもした。
自分にとって町の銭湯は、余暇やリラクゼーションのためのものではなく、まさに生活そのものだった。



店じまいはちょっと寂しい。
でも、ずっと行かなくなってしまった自分がそんなこと言える筋合いもない。
ただ一言、言っておきたいことがある。
ありがとうございました、と。
長い間お疲れさまでした。




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