えびす顔の造花卸売問屋元社長からの手紙

かすかな希望を抱いて幸せを自慢する尊大な手紙。重複掲載御免。造花仏花の造花輸入卸売問屋ニューホンコン造花提供

パッチギ

2005年02月13日 17時03分00秒 | 劇・映画・音楽
 パッチギを観てきました。

 お勧めです。
 
 舞台となった1968年と言えば70年安保を目前に全共闘運動が全盛な時期。団塊の世代が若者だった。私はその少し後の世代。大学に入学した頃には学生運動は8回生と称する全共闘の生き残りが時たまオルグに教室に入ってきたぐらいだ。「マイホーム主義」や「社会の偽善」には反発する一方で半面、「結局、彼らは負けた」と悟ったつもりでいた。私たちの世代への呼び名は無い。当時読んだ小説をもじって「遅れてきた青年」と自らを揶揄していた。
 
 時代の設定は私のそれよりほんの少し早いが、同時代と感じる所が多々ある。
 康介とアンソンが着る外向きワニのラコステ。バンホーは内向きワニのクロコダイルを着ている。ペンギンマークのマンシングを着ていたのはチェドキだったか。当時、生野の小学校でも本物か嘘ものか分からないワンポイントマークのポロシャツが流行で、禁止になったのを覚えている。
 パッチギもパチキとかパッテキと称して使っていた。

 小中と在日の子らと一緒に学んだ。朝鮮初等学校(正式名でないかも)は小学校の隣にあった。それでも朝鮮学校の生徒とは没交渉、交わりは一切無かった。この壁はとてつもなく高かった。高校に入るとそれこそ在日の子らとの繋がりもほとんど無くなった。生野に4万人の在日韓国・朝鮮人の方が住んでいてでもだ。

 葬儀でアンソンとバンホーが壁を壊す場面は「どうしようもない憤りを正面からぶつける相手も術も無く、むやみやたらと何かに力で訴える」この映画を象徴している。あの怒りの先は、実はイムジン河の歌詞で「誰が祖国を分けてしまったの」と問いかけられている相手に重なるのだろう。私は受け止める勇気と力を持っているだろうか。
 
 そう考えつつ、同時代的に生きた者として、アンソンの行動に嫌悪と嫉妬を抱く。そして共感も持つのである。

 大西がやくざに連れて行かれるのはどういうことか。これは良く分からなかった。もう一度観れば分かるのだろうか。

 参考 ぼんbongのページ
コメント (6)
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