先日、facebookにこんな記事が載っていました。
上田 誠
「絆」、「花が咲く」が分からない。
毎年、繰り返される「絆」の唱和。
私には、これがさっぱり分からなかったし
今もよく分からない。
3.11直後から
この言葉の意味が良く分からなかった。
分からないあまり、息子にその意味を尋ねたりしたものだ。
津波で
子どもを失い
妻を失い、
祖父、祖母を失った者とその死者とのつながりなのか、
初めはそう考えたものだった。
死者とのつながりを失うなということか。
であれば、死者との交信はやすらぎではある。
でも、
どうやら違うらしい。
被災した者を勇気づけるための
「私たちはつながっているよ」という、
一番避けたいそれであった。
まさか、こんな意味で唱和するくらい
他人の不幸に鈍感になってしまったのか。
だから、
この言葉を聞くたびに
とても気分が悪くなった。
無関心を装うことで、心のバランスを保つようになった。
親族を失って
たったひとりになった者が
残された人生を楽しく生きて行けるものか、
前を見て生きていけるものか。
ましてや、私たちとつながっているよ、と他人が
手をさしのべるのは、あまりに失礼すぎる。
被災者の、
生きるほどに
苦しくなっていく、その心が
見えないのだろうか。
家族全員を失った男が
「絆」の言葉なんか聞きたくないという映像があった。
彼は、とにかくかまわないでほしい、と言っていた。
岩井俊二さんの「花が咲く」についても
岩井さんの歌だけに、
その歌詞には戸惑ってしまった。
いつか花は咲くのであろうか。
そう思いたい気持ちは分からぬでもないが、
フクシマでは
ほんとうに「花」が咲くのだろうか
咲くのかどうか、
私にはどうしても分からない。
どれだけ自問自答しても分からない。
悲しみに苛まれて、
生きるのが苦しくて
もうどうしようもない絶望の淵で
自死に至る方があとを絶たない。
どうしようもないことが起きたのであり、
その悲しみは、容易に「前を見て」なんていえないほどに
それほどに苛酷な天災であり、フクシマであったとのだとしか
私には思えない。
FBFの寄稿で
松本昌次さんの記事を読ませていただいた。
松本昌次さんには「花は咲く」という歌が
戦時の『海行かば』にどうしても重なると言っている。
彼はまた、
「戦争中からこれまで、いったいどれだけ死者とともにわたしたちは、“希望の涙”に誤魔化されてきたことか。」と言い、また、「あなたは、津波で家族を亡くした人や、放射能で家を追われて帰るあてもなく他郷に仮寓している人の前で、『花は咲く』を歌えますか。スタジオのマイクの前ではない。被災者の前で、「花は 花は 花は咲く」と本当に歌えるのだろうか。もし歌えるとしたら、わたしはその人の神経を疑わざるを得ない。」とも言っている。
絶望の悲しみが「希望の涙」に変化するその変わり身が
ファッショに繋がるという直感もそうだが、
「日本人」の、乗りこえるべき「心性」が
まずは、ここにあるように思う。
かつて、
障害児施設にボランティアに来た中・高生が
2週間足らずの活動で
「障がい児は、みんな一生懸命生きている、純真な心をもつ子たち」と
異口同音の感想を述べていたことに
危機を感じたものだった。
障がい児は
一生懸命に生きることを強いられ
純真な心をもつとの偏見に
ずいぶんとやられてきた歴史があるのである。
時代は大きく変わってきたというのに
毎年、3.11が近くなると
とても暗い気持ちになってしまう。
私のことはどうでもいいのだが、
被災者、フクシマの悲しみを
勝手に巻き込んではいけない、
そんなことは絶対にしていけない、と思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「東北のみなさん こんにちは」でこの手紙を始めてよいのだろうか、
考えさせられます。
上田 誠
「絆」、「花が咲く」が分からない。
毎年、繰り返される「絆」の唱和。
私には、これがさっぱり分からなかったし
今もよく分からない。
3.11直後から
この言葉の意味が良く分からなかった。
分からないあまり、息子にその意味を尋ねたりしたものだ。
津波で
子どもを失い
妻を失い、
祖父、祖母を失った者とその死者とのつながりなのか、
初めはそう考えたものだった。
死者とのつながりを失うなということか。
であれば、死者との交信はやすらぎではある。
でも、
どうやら違うらしい。
被災した者を勇気づけるための
「私たちはつながっているよ」という、
一番避けたいそれであった。
まさか、こんな意味で唱和するくらい
他人の不幸に鈍感になってしまったのか。
だから、
この言葉を聞くたびに
とても気分が悪くなった。
無関心を装うことで、心のバランスを保つようになった。
親族を失って
たったひとりになった者が
残された人生を楽しく生きて行けるものか、
前を見て生きていけるものか。
ましてや、私たちとつながっているよ、と他人が
手をさしのべるのは、あまりに失礼すぎる。
被災者の、
生きるほどに
苦しくなっていく、その心が
見えないのだろうか。
家族全員を失った男が
「絆」の言葉なんか聞きたくないという映像があった。
彼は、とにかくかまわないでほしい、と言っていた。
岩井俊二さんの「花が咲く」についても
岩井さんの歌だけに、
その歌詞には戸惑ってしまった。
いつか花は咲くのであろうか。
そう思いたい気持ちは分からぬでもないが、
フクシマでは
ほんとうに「花」が咲くのだろうか
咲くのかどうか、
私にはどうしても分からない。
どれだけ自問自答しても分からない。
悲しみに苛まれて、
生きるのが苦しくて
もうどうしようもない絶望の淵で
自死に至る方があとを絶たない。
どうしようもないことが起きたのであり、
その悲しみは、容易に「前を見て」なんていえないほどに
それほどに苛酷な天災であり、フクシマであったとのだとしか
私には思えない。
FBFの寄稿で
松本昌次さんの記事を読ませていただいた。
松本昌次さんには「花は咲く」という歌が
戦時の『海行かば』にどうしても重なると言っている。
彼はまた、
「戦争中からこれまで、いったいどれだけ死者とともにわたしたちは、“希望の涙”に誤魔化されてきたことか。」と言い、また、「あなたは、津波で家族を亡くした人や、放射能で家を追われて帰るあてもなく他郷に仮寓している人の前で、『花は咲く』を歌えますか。スタジオのマイクの前ではない。被災者の前で、「花は 花は 花は咲く」と本当に歌えるのだろうか。もし歌えるとしたら、わたしはその人の神経を疑わざるを得ない。」とも言っている。
絶望の悲しみが「希望の涙」に変化するその変わり身が
ファッショに繋がるという直感もそうだが、
「日本人」の、乗りこえるべき「心性」が
まずは、ここにあるように思う。
かつて、
障害児施設にボランティアに来た中・高生が
2週間足らずの活動で
「障がい児は、みんな一生懸命生きている、純真な心をもつ子たち」と
異口同音の感想を述べていたことに
危機を感じたものだった。
障がい児は
一生懸命に生きることを強いられ
純真な心をもつとの偏見に
ずいぶんとやられてきた歴史があるのである。
時代は大きく変わってきたというのに
毎年、3.11が近くなると
とても暗い気持ちになってしまう。
私のことはどうでもいいのだが、
被災者、フクシマの悲しみを
勝手に巻き込んではいけない、
そんなことは絶対にしていけない、と思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「東北のみなさん こんにちは」でこの手紙を始めてよいのだろうか、
考えさせられます。