オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

ハムスターvs人間の関係

2009年07月18日 | Weblog


昔、単身赴任先でヨッシーという名のハムスターを飼っていた事がある。

 名前を呼ぶと反応を示し、巣の中でゴソゴソ動いているが、やがて巣から顔を出し鼻をヒクヒクさせて外の様子をうかがいながら用心深く外に出てくる。基本的には夜行性であり昼間はあまり活動せず、無理に呼び出しても眠そうな顔をしているし動きも活発ではない。わざわざ出てきてくれたのだから早速好物のカボチャの種を与えたり、新鮮な青物類を与えたりしているが、食べ物欲しさに出てきているのか同居人の私に関心を示して出てきているのかは知る由もない。

名前の由来は、

 その頃の上司の名前が「義久」さんと「義継」さんで、両方に「ヨシ」がつくので、こっそりとその名前を拝借した。毎日「ヨッシー」「ヨッシー」と呼び捨てにすると気分転換とストレス発散になったものである。別に二人の上司が憎たらしいほど酷い人であったわけでなく、尊敬すべき方々だったが、自室での誰も知らない密かな楽しみとしていた。後になって悪友が言いふらしたので、本人達の知るところとなったが、笑って許してくれた。

家に帰ると時々カゴから出して遊ばせていた。

 カゴから出すとき無理に掴もうとすると反撃を食らう。鋭利な歯で噛むのである。付き合いが長くなって馴れてくると噛まれなくなったが、指先に噛み跡がついて血がにじむほど強烈なときもあった。カゴから出したら座卓の上で遊ばせる。背中を撫でてやると気持ちよさそうにじっとしている。多分母親の愛撫を思い出しているのかも知れない。最初の頃はテーブルの上だけをチョコチョコと歩き回っているが、時間が経つとテーブルの上から床にダイビングを試みる(ダイビングと言うよりも足が滑ってドテッと床に落っこちる格好悪い感じだが)。何度やっても同じようなダイビングを試みるので本人はどうやら意識的にやっているようである。

ある日、部屋の中で行方不明になった。

 まさかテーブルから飛び降りることはないであろうと思って、遊ばせたまま居眠りしていたら居なくなっていた。名前を呼んでも返事するわけでもない。腹が空いたら出てくるだろうと思っていたがやはり心配なので、あちこち部屋の中を探し回ったがいない。一部屋ずつ丹念に調べ、探し終わったら部屋のドアをしっかり閉めるようにして虱潰しに探したら、洋間の押入の奥の衣装ケースの間の隅っこの方にキョトンとして居るのが見つかった。逃げ回るわけでもなく神妙にお縄を頂戴した感じで掴まえることができた。どうやら同居人に敵意は抱いていないようである。

夜に一人でボーッとして退屈なとき、このハムスターは格好の暇つぶしになる。

 強烈に噛まれたとき「こいつは何を思ってこんな反撃をするんだろう」とふと思った。ハムスター対人間ではとても勝ち目はないはずである。相手を怒らせると仕返しが恐いとも思っていないのであろう。この関係を世の批評家に言わせると「何と世間知らずの向こう見ずな先見性のない無謀なハムスターだろう」と言うことになり「噛みついて反撃したのは大局的に間違いだった」という結論に達するのであろう。しかし、私は違う。「世間知らずで向こう見ずで先見性がなく無謀であろうと噛みつくべき時は噛みつかなければならない」と思うし、このハムスターの行為は間違っていないと思う。

自分の存在を脅かす行為を相手から受けた時は相応の対処をしなければならない。

 これは当然のことであり、その対処方法はいろいろありこれを選択するのは対処をする本人の意思により異なる。その選択が誤っていたかどうかは別の評価であり結果論でもある。それよりもまずは敢然と凛とした自分の意思表明をすることが何よりも増して重要であると思う。最初から結果を見越して意思表明もせず、やるべきこともやらないのは自分の存在そのものを否定していることでもある。どんな巨大な相手であろうと強烈なひと噛みをするハムスターは自己の存在を徹底的にアピールし相手の行為に対して拒否の意志を猛烈に表明していることになる。小さなねずみとは言え見上げた根性である。

テーブルから床へのダイビングはどういう意味があるのだろう。

 テーブルの上には安住の地がないことを確認した上での外へ向かっての冒険なのであろう。この冒険も世の評論家に言わせると「世間知らずで向こう見ずで先見性がなく無謀」だと言うことになる。しかし、この冒険により新たな安住の地「押入の片隅」を手に入れたのである。冒険をしなければ新たな展開は期待できないし、現状に止まっていては問題は解決しない。冒険をして問題が解決するかは解らないが敢えて冒険をするのである。その勇気たるや小さなねずみとは言え見上げた根性である。 たぶん世の評論家はその結果を見定めて善し悪しを判断するのだろうが、冒険をしたこと自体に遡って批判することは間違っている。「イフ」の世界で話をされても現実世界は無常に流れ元には戻せないのである。

どういう訳かカゴからは自らの意志で逃げ出そうとしない。

 カゴの中は安住の地なのである。食料も水も寝るところも遊ぶところも排泄するところも、そして何よりも外敵からの安全が確保されている。このいずれかが欠けたらカゴから鉄やプラスチックを食い破ってでも脱出を敢行するのだと思う。見上げた根性である。今カゴの中にないのは仲間であり伴侶である。果たして仲間や伴侶を見つけるためにカゴからの脱出を試みるのかは私には解らない。今のところその兆候は全くなく、同居人としてはそれをなだめるべく暇なときには構ってやっている。迷惑かも知れないが敵意を抱かれていないことは確かである。

こんな雑文を書いてみてよく考えると、このハムスターはどこかの国に似ている。

 そう、日本である。江戸、明治、大正、昭和期の日本に例えることができる。世の評論家は結果論で「あぁでもないこぅでもない」と批判し、さも自分がもっと立派で高次元に立っているかのような論調を展開するが、本当に当事者の立場に立てばこれを少なくとも結果論で評価できないはずである。結果論としての分析と反省はできても過去を変えることも時間を取り戻すこともできないし、自分が当事者であったとしても果たしてどれほどの対処ができたのか疑問である。ただ、唯一評価できるとすれば、当事者が結果はいざ知らず敢然と凛とした自分の意思表明をはっきりさせたかどうかであると思う。一言で言えば「勇気」をもって事に当たったかであると思う。開国当初の日本人はこの敢然と凛とした日本人としての気概を持ち諸外国に対し対等に堂々と意思表明をしていた。そのため、諸外国も日本には一目を置いていたのである。その点ですばらしく立派な人物をたくさん見つけることができる。

この頃の日本を見ているとどうもこのような気概が薄れている気がしてならない。

 反対に江戸、明治、大正、昭和のような天下国家を語る強固な主義・思想を表明すると危険人物扱いされる風潮にあり、日和見主義が跋扈している。嘆かわしい限りである。江戸、明治、大正、昭和の歴史を見てみると、「リーダー」が不在もしくは能力不足になったあたりから進むべき方向がおかしくなってきたようである。昔から日本人はスタッフと部下はずば抜けて優秀であったが、この頃はどうも「リーダー」がお粗末なようである。特に敗戦後「リーダー」はその地位と名誉を剥奪されますます自信を失ったまま現在に至っている。果たしてどのようにすれば江戸、明治、大正、昭和のような天下国家を語る優秀な「リーダー」が育つのだろうか。ただ敗戦の後遺症が癒えるまで黙って待つしか方法がないのであろうか。


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