依存症は依存している状態が継続して止められない状態である。
対象物は何でもいいのである。その状態が自分にとって心地良くてその状態から抜け出したくない状態であり、たとえ中断してもまたその状態になることを再度欲求し続ける。その繰り返しが永遠に続く対象物と本人との関係が依存症である。対象物のせいでもないし、自分のせいでもない。なぜならば、対象物がなくなればそのものに対する依存症は消失する。ただし、本人の心理的作用で他の対象物への依存症となる可能性はゼロではない。
ギャンブル依存症が問題になると、
我々は短絡的に、「ギャンブルが悪い」「ギャンブルする人が悪い」となってしまうが、問題はギャンブルとギャンブルする人との間で生じている。何故依存症になるのかを探求しなければならないのだろう。ギャンブルする人の中ではギャンブルをやっている状態が心地いいのであり、病的になると人生そのものの幸福感と達成感をその瞬間につぎ込んでいて、最高の充実感を味わっている状態だと思うし、この状態をずっと継続したいと思っているのだろう。
ギャンブルが悪いわけでもない。
人間世界を見渡せばどこにでもギャンブルが転がっているし、人生における重要な選択はギャンブルそのものである。しかし、現実世界では無謀なギャンブルは許されない。理性に則った模範的な選択が強いられるし、それをしない人達は人生が、生活が破綻してしまう。そんな中で社会生活をしている一個人としては、無謀なギャンブルが許される世界は魅力的であるし、確率的に有り得ない無謀な挑戦でさえ許してくれる世界は現実世界からの逃避を可能にする。
確率的に有り得ない無謀な挑戦を成し得た時の達成感は極上である。
一回経験すると止められなくなる。そしてそのような挑戦を継続して試みている自分の状態も最高であり、極上の達成感を求めて永遠に挑戦を続けることとなる。ギャンブル依存症の人は金銭目的ではない。金銭目的であれば、依存症になることはない。金銭は極上の達成感のひとつの物差しにしか過ぎない。大金を投じての挑戦そのものが貴重であり、時々もたらす極上の成果が大金であるにすぎない。たまにもたらす確率が少なければ少ないほど達成感は増大し、成果は達成感に比例している。
このギャンブル依存症の人を食い物にしている人達がいる。
「射幸心」という言葉があるが、この「賭け」の心理をうまく利用してコントロールしてお客を引き付けている。確かに現実世界にない無謀な挑戦を可能にし、極上の達成感と充実感を与え、お客を麻薬的な快楽に浸らせて大金を巻き上げている。ギャンブルを楽しむのは構わないが病的な依存症になってしまっては取り返しがつかないし人生を破壊してしまう。それは許されないし、何としても阻止しなければならない。
どうしたらいいのだろう。
依存症は現実世界からの逃避である。現実世界で不可能なことを仮想の世界の中で実現しようとする行為でもある。解決法としては、現実世界で困難なことから逃げずに現実世界の中に自分で挑戦できるものを見出して、地道に気長に挑戦する心を持つことだと思う。ギャンブルであれば現実世界の中でも日常的にたくさんころがっている。そのギャンブルを楽しむことだと思う。
コンピュータによるゲームの世界がある。
これも否定するつもりはないが、現実世界にゲームと同じような対象がいっぱいころがっている。これを楽しめばいいではないか。ギャンブルの世界やゲームの世界は全く生産性がないが、現実世界では選択が正しければ継続的に挑戦し続ければ何らかの具体的成果がついてくる。そこにはささやかではあろうが貴重な達成感が確かに存在する。その達成感を大切にしたいし、その達成感のために日々努力したい。
仮想世界と現実世界は区別しなければならない。
仮想世界の現象も現実世界で実現しようと自分で努力すべきである。仮想世界だけのものにしてはならない。情報も同じである。世の中に流れている大量の情報は仮想世界のものである。これを自分の体験とする努力をすべきであり、自分で現実の事実として認識できるように自己を鍛えていかなければならない。仮想世界に流されてはいけないのである。仮想世界のネタの一部は自分の足元にいくらでもころがっている。
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