オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

制服のすばらしさを見直そう。

2008年02月20日 | Weblog

一般的に「制服」は近頃敬遠される傾向にある。


 以前長崎を旅行した時、グラバー邸を修学旅行の一団が見学しているのを偶然見かけた。全員「制服」である。学生帽に詰め襟の学生服に黒の革紐靴である。全員着崩したところもなく髪型も短めに清潔さで決めている。私は一種の感動を受けた。昔の自分は制服こそ着ていたが、バンカラを気取って帽子を潰したり、マンボズボン(古い表現だなぁ)を履いたり、革靴もピカピカがいやでわざと履き古した感じにしていた(それでも踵は潰したりせずきちんと履いていた)のを思い出すと恥ずかしい限りである。多分一流の伝統ある学校なのであろう。学生全員が制服に誇りを持っているのが顔の表情や立ち居振る舞いからひしひしと伝わってきて思わず「負けた」と脱帽してしまった。

制服を敬遠するのは制服に誇りが持てないからであろう。

 いやな制服を着せられるのはたまらない。いくら「制服」でも「囚人服」を着れと言われれば罪のない一般人は拒否するであろう。制服は志を同じくする集団の象徴である。その集団に憧れ、その集団の一員であることに誇りが持てれば喜んで制服を着る。学校で制服が人気がないのはその学校に憧れ誇りにできる伝統がなくただ義務として制服着用を強制するからである。欧米の学校に制服がなく自由であるというのは誤解である。制服のある学校も多い。特に伝統を重んじる一流校で制服を着用している。

要は、学校の校風が自由平等を尊重するか、伝統を尊重するかの違いであり、

 制服が良いとか悪いとかの議論は最初から的がはずれている。内容のない「伝統」を守るための制服への固執であったり、はき違えた自由平等(自分勝手)を実現するための制服拒否であってはならない。学校側も学生や保護者も制服にこだわること自体がおかしいと私は思う。伝統を重んじる学校が制服を着用しているから、それを真似して制服を着用させるという考えもおかしい。「伝統」そのものがなく形だけにこだわっている。「なぜ制服を着る必要があるのか」と問われると答えに窮する。「規則で決まっているから」という意味のない空虚な解答しかできない。

制服を着る自由もあるし着ない自由もある。

 一部の制服着用拒否組が制服を着る自由を無視することもできないし、大勢の制服着用組が一部の制服着用拒否組の着ない自由を無視することもできない。志を同じくしてその象徴として制服を着用しているのであれば制服着用拒否は「志」の拒否でもある。そうであればその集団から去らなければならない。単なる服装だけの話ではなかろう。単なる服装だけの話であれば統一した制服にする必要は最初からない。

なんかややこしい話になったが、単純に言えば、

 サッカーのユニフォームを着るのがいやで、ある一人の選手が自由な服装をしたいと言うのと同じである。ユニフォームはチームを識別するためにある。チームは志を同じくする集団である。自由なユニフォームをどうしても着用したければ、自分の好みにあったユニフォームのチームに入るしかない。それ程までにユニフォームに固執することは私に言わせれば無意味であり本末転倒である。ユニフォームのないスポーツもある。ゴルフやテニス等の個人技のスポーツである。服装は個人の自由であり同じ服装にするほうが違和感がある。こんな特性も考えずに一方的に「全員同じ」を強制するのはおかしい。

伝統として制服を着用していた学校で、

 一部の学生が制服着用を拒否したらどうするのか?認めるのか認めないのか?日本では「これを認めたらみんなに示しがつかず伝統が壊れてしまう」と言う考えが主流であろう。だからこの一部の者を有無も言わさず強制的に潰しにかかる。しかし、伝統とはそんなものではないであろう。そんな制服着用拒否に固執している一部の学生なんか飲み込んでしまうほどの重みがあり、また、これを認めるくらいの包容力を持ったものであろう。その伝統を理解した先生なら学生を説得することも可能である。当然過去にもそのような学生はおりそれを乗り越えて存在する伝統であろう。

説得できなくても一時の経過措置として認めることは何も恥ずべき行為ではない。

 全員が永久にかつ完全に一致した考えを持つのが難しいと言う格好の事例研究になる。学校の伝統をよく理解させた上で学生同士で話し合わせることも有効である。その説得と対話の積み重ねが「伝統」を造り上げる。それが覆される薄っぺらなものであれば、もはやそれは「伝統」ではない。最終目的は学生の教育であり、サッカーのユニフォームみたいに単純には割り切れない。

「それじゃ、学生に制服着用の必要性をどうやって説得するのか?」

 という切実な質問があるかも知れないが、それは、一人の独断で言えることではない。各々の学校の伝統に応じて説得しなければならない。「なぜ制服を着用しなければならないのか?」は過去の伝統に基づいて自分達で考えるべき事である。
 ちなみに、制服を着用する典型的な集団は軍人や警察官である。軍人は一般市民と混同されないために制服を着用する義務がある。戦闘に参加する者と普通の市民とを区別するための制服である。警察官は警察権を主張するための制服であり職務中は制服を着用する義務がある。制服により一般市民を取り締まる権限を得ることができる。


それでは学生の制服は何であろう。

 私に言わせれば学問と修業の身であることを示す制服であり、やはり一般市民と区別するための制服である。制服の種類は学校を区別するものである。学問と修業の身であることの自覚があり、所属する学校に憧れと誇りを持つことができれば制服を着用することに抵抗はないはずである。また、先生と学生を区別するための制服でもあるだろう。教える者と教えられる者を明確にすることも必要なことである。差別でもなく封建主義や権威主義や自由平等に反する事でもない。自分の存在と地位・役割を認識すれば制服もすんなりと受け入れられる。

学問と修業の身である自覚も、

 先生と学生の区別も必要でないというなら制服も必要ない。一般市民と同じ立場を要求し、生徒も先生も同じ立場の真の実力主義の世界で教育するという校風を持つ学校であれば制服は必要ない。その学校の学生には「学生である」という区別と特権は許されない。

学生の立場で考えると、

 制服のままでタバコを堂々と吸ったり、茶髪やピアスや派手な化粧をしたり、だらしない格好や行動をすることは許されないと思う。制服のままで学生にあるまじき行動、一般社会人としても当然恥ずべき行動をすることは、学生の地位・役割を放棄し制服を汚しており、最初から制服を着る資格がない。

警察官が制服を着て違法行為をするのは、

 警察の信頼をなくす行為であり断固として許されないし、制服を脱いでも許されないのと同じである。こういうしつけを怠り、安易に許すから制服の伝統や良さがなくなってしまうのである。築き上げた伝統や文化は引き続き守って行こうと努力しないと瞬時にして崩壊してしまう。みんなでぶっ壊すのはいとも簡単である。それをみんなで守って行くこと、守られることに伝統の良さがあり価値がある。

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