オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

貨幣経済と原初的交易

2010年12月11日 | Weblog

どうやら人間の本質は貨幣社会に馴染んでいないようだ。

 自分が持て余しているものと相手が欲しているものが一致し、相手が持て余しているものと自分が欲しているものが一致して相互に交換するということはほとんどない。相手が欲しているだろうものを生産して不特定多数に買ってもらうために商品を売る。この商品と売る側の関係は醒めている。あくまでも商品であり、商品の価値を決めるのは不特定多数の買う側である。自分が持て余しているものでもないし、自分が価値を認めて手放したくないと思っているものでもない。どちらかというと、不特定多数が価値を認めるようなものを大量に生産して売りつけている。目的は何かというと「金を稼ぐ」ためである。

本来の物々交換はこんな考え方ではない。

 自分が大いに価値を認めた自分でも手放したくないようなものを相手(個人)に贈呈して相手とのコミュニケーションを図るのが目的である。相手がこれに呼応すれば、相手も自分として最高のものを贈呈しコミュニケーションは継続しお互いの信頼が深まってゆく。一番最初は神への貢物ではなかったかと思う。これがお互い未知の部族間の交易に応用されて、人間の世界でも広まって、現在の味気ない形に成り下がっている気がしてならない。本来の物々交換による交易は神を崇めるように相手を尊重した神聖なものだったのである。当然の如く見返りを期待した打算的なものでなく、一方的に最大の誠意を示す献身的な行為なのである。この心は「善」に通じる。

誰かに贈り物をして、即座に等価以上のお返しがあったら何だかしらけてしまう。

 贈り物をしているのは、見返りを期待した打算的なものではない。そうであれば、ある程度の期間は贈り物をした献身への満足感と相手の感謝の心を確かめる余裕がほしい。何のために贈り物をしているのか、端的には相手に尽くしたい相手の喜ぶ顔が見たいという事だろう。そしてこれによりコミュニケーションを図って相互の信頼を深めようとしているのである。この心は貨幣社会の考え方では実現できない。金の話をした途端、心は通わなくなる。人間は本質的に無味乾燥な貨幣社会を便利だとは思っても究極のものとは思っていないし、貨幣社会が蔓延するほど本来の原初的で神聖な物々交換の良さに惹かれる。

誠意や施しを金勘定で値踏みする事は嫌われる。

 神聖で崇高な物や行いを金換算する事にも抵抗がある。この頃は何でもかんでも金換算するが正直言って辟易している。反対に訳の解らない古美術や骨董品に馬鹿みたいに高い値段がついているのにも呆れて物が言えない。売る人がいて買う人がいるという流通があるので成り立っているのだろうが、流通の外にいる人にとっては値段なんて関係ない。中には自分で価値を認めなくても金儲けのためだけに買う人もいる。売る人も品物の価値に関係なく価格が高ければ売るという。多分売る人も自分なりの価値意識はないのであろう。本当に価値を認めるならば手放さないだろうし、それでも手放すのであれば、相手は少なくとも自分と無関係の他人ではないだろう。

巷では「割り勘」が流行っている。

 いかにも現代らしいが、本来のコミュニケーションを省略した形であることは認識すべきである。少なくとも単に人数割するのでなく、割り勘の仕方を工夫する位の煩わしさは厭わないでやってもらいたいと思う。その煩わしさの過程そのものがコミュニケーションなのだと思う。上司がおごるのも、男性が女性におごるのも、男女や年齢に応じた割り勘の方法を考えるのも、たまにはじゃんけんやくじ引きでも、やり方はいろいろだが、単なる金勘定でなくお互いのコミュニケーションを図って信頼を深めることを目的に工夫してもらいたいし、たとえ支払いが不平等であっても信頼がさらに深まるようでないと仲間関係は維持できない。単なる人数割りの割り勘は初対面でのやり方だろう。

発祥の頃の交易としての物々交換はお互いに接触することなくなされた。

 どういうわけか部族間の接触はタブー視されていたのである。部族間の境界線付近に一方的に自分達の品物を置き去りにして相手の様子を伺った。相手が気に入れば黙って持ち去られ、代わりに相手がその場にお礼として自分達の品物を残していった。その間全くの接触を持たないし、お互いの交渉もないのが通常だった。ある程度の時間差を保持した、有用性を無視した行為のやり取りの中でコミュニケーションと信頼を確認することが目的であったようだ。有用性を重視すればこんな行為には至らないし、確実に物々交換できる仕組みを追及するはずである。まずは、献身的に贈呈するところから始まり、これに対する相手からの反応を確認することによりコミュニケーションが図られることとなる。

その後、この原始的な交易は進化してゆく。

 最初は、ただ単なる品物の置き去りから、お互いに贈呈し合う一方通行のやり方になり、等価交換のための相互に物品を品定めする過程が加わってゆく。そして、貨幣が出現し、流通が発展して現在に至っているのであろうが、最初の頃の交易の精神が失われているような気がしてならない。そして、自分でもこの原始的な交易の精神がしっくりするのである。また、この原始的な交易の精神がなければ人間同士の心の交流は図れないと思う。心の交流を無視した便利な貨幣社会を無視するものではないが、全てが「カネ」では「心」は干上がってしまう。現代がまさにそうではないかと思われる。

今こうやってブログに稚拙な記事を書いているが、

 これはまさに、原初的な交易に他ならない。金勘定も打算的なことも交換条件さえも全くなくて、とにかくネットワークという中立地域にこの記事を提示して、顔の見えない誰かがこの記事を見てくれて、なにがしかの価値を認めてくれれば読んでもらえて、気が向けばコメントを返してくれる。大げさに言えばこのインターネットは世界に繋がっている。私個人からすれば未知のジャングルに向かって原始人が交易に挑戦しているのと同じ様な心境でもある。貨幣社会とは異次元の新しい原初的交易の世界といってもいいかもしれない。こういうことに価値を認め、贈与とか所有を超えた次元で行われる行為は新しい世界を開くかもしれない。この延長線上では便宜的に発明された「貨幣」が将来的には消滅するのではないかと暗示さえする。 


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