
よく年長者から「初心に帰れ」と忠告されることがある。
初心とは、物事を始めた時の最初の気持ちであり、その主要な部分は物事を始めた動機であり、最初に掲げた目的である。物事が進展してくるといろいろな要素が複雑に絡み合って、ひとつひとつをどのように判断し結論づけたらいいのか判らなくなってくる。その時に言われるのが「初心に帰れ」である。初心に帰ることで最初の動機が明らかになり、最初の目的を達成するためにはどうしたらいいのかが見えてくる。物事を始めた動機や最初に掲げる目的は単純で判りやすいものであり、複雑に絡み合った糸をほぐして整理してくれる。
人間は不思議な動物で、人生について大いに悩む。
しかし、初心に帰ってみると、まずは「生きる」ことであることに気づく。この世に生を受けまずは生きることに精一杯努力したはずである。そう考えると生きてさえいれば最低限の目的は達成している。その他は余録であり、楽しくても苦しくても有意義でも無意味でもそれは二次的なものである。楽しくて有意義であることに超したことはないが、苦しくて無意味でもそれは第一義の「生きる」ための試練であり代償である。しかも、楽しく有意義にするも、苦しくて無意味にするも、その人の考え方ひとつでどうにでもなる。どうせなら楽しく有意義に生きたいものである。
いろいろと複雑な事情はあるだろうが、
何でも初心に帰ってみることは重要である。そして初心を貫き通すことがもっと重要である。本来の目的を素直に主張すると「子供みたいなことを言うな」と諭されるが、子供みたいな初心の感覚が重要なのである。そして初心に反するものはどんなに時間と労力がかかって損害と犠牲が大きくても排除するか改善して行かなければならない。例えば、「民主主義」とは、被支配者が支配者と同一の地位を獲得したものである。支配するものと支配されるものが同等で平等である政治体制であるはずである。民主主義においても支配するものと支配されるものは存在するはずである。そうでなければ、何と何が平等なのかが不明確になってしまう。
支配されずに自由なのが民主主義だと勘違いしていないだろうか。
「支配」と言う言葉が悪いかも知れないが、権限を持つものと権限に従うものと考えたら判るだろうか。民主主義には必ず権限を持つものと権限に従うものが存在しているはずである。そして権限を持つものと権限に従うものは契約によって平等が保証されている。権限を行使する力と権限の行使を抑制する力のバランスが調和しているのである。そして、その契約のもと権限を行使する人は責任を持って権限を行使し、権限に従う人は責任を持って権限に従わなければならない。この関係が不明確だと民主主義が根底から崩れてしまうのではないかと思う。この二局の立場をごっちゃにして考えている人が多いのではないだろうか。自由だ平等だと主張するけれども何に対する自由と平等なのかをもう一度考え直す必要があるし、バラバラの個人同士が万人全て自由と平等を獲得するのは最初から不可能である。
資本主義も同様である。
資本家と労働者の関係を同等で平等にしようとする仕組みを作り上げることが最初の目的であるはずである。もっと前の産業革命まで遡ると工業製品を効率的に生産し流通するための仕組みを作り上げることであった。ところが、現在はこのような目的を無視し資本主義を崩壊させるような経済活動が跋扈している。その根底は金儲けである。金さえ儲ければ何をやってもいい、法的な規制がなければ何をやってもいい、資金を提供する相手がいれば何をやってもいい、というような資本家、労働者、生産、流通を無視した商行為がなされており、一国の経済をも破壊させてしまうような勢いである。いくら資本主義が自由な経済活動を保証していても、本来の目的から逸脱する行為は排除し改善して行かなければならないと思う。
個人にとって自由は快適であるが、放恣放埒な自由は効率が悪いし何も生み出さない。
まずは、目的を掲げ、目的の達成のために個人同士が力を合わせる必要がある。そのためには統制も必要だろうし、状況によっては強制もある。それは目的を達成するためお互いが了解した上での行為であるはずである。その中の役割分担で権限を与えられた者と権限に従う者が自然発生的に生じ、組織が作られて行き、その組織がつながり合い広がって社会が構成されて行くと思う。そのような社会の中にいて権限に従うことをせず放恣放埒な自由を主張することは社会や組織の存在そのものを否定することである。そう考えつつ「権利」と「義務」について初心に戻ってもう一度考え直す必要がある。
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