オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「盗み」と「施し」の考察

2009年02月28日 | Weblog

世の中を見渡すと、あらゆる事件のほとんどが「盗み」である。

 殺人事件も人の命を奪うということでは「盗み」ともいえる。物や金だけでなく、人の権利を盗んだり、人そのものを誘拐する盗みもある。そして、盗んだ人と盗まれた人が諍いを起こし、これが高じて傷害事件や殺人事件にもなる。その仲裁をする公共機関も大変である。「盗み」とは「人の物を密かに自分の物にすること」であり、盗む物は「人の物」であり、しかも「相手の諒解なしに隠れて」自分の物にすることである。

「盗み」という行為をよく考えると、非常に効率がいい。

 「盗み」は盗んだ物の倍の価値がある。通常であればAという物と等価の努力をしてAを手に入れる。そしてAを使うことの利便性を享受することができる。Aを持っている限りAの利便性はいつまでも享受できる。その利便性を享受したいがために自己を犠牲にして多大な努力をしたのである。ところが、このAを盗む人は、「自己を犠牲にした多大な努力」をする必要はなく、「Aの利便性をいつでも享受できる」のである。「盗み」を一回やったら止められない心境が良く解る。

盗まれた人は2倍以上の損失を被る。

 「自己を犠牲にした多大な努力」が全く無駄になり「Aの利便性」を失う。引き続き「Aの利便性」を必要とすれば、再び「自己を犠牲にした多大な努力」をしなければならない。こんな理不尽なことはない。頭に来て怒り心頭に発する心境が良く解る。ところが通常は、盗まれた物の価値しか話題にしない。Aの価値が100万円であったら100万円しか話題にしない。必要のない有り余っている物が盗まれたわけではないのであれば本来の損失は200万円以上である。

この頃の盗人は礼儀をわきまえていない。

 昔の盗人はその辺の礼儀をわきまえていた。金持ちで物が豊富にあってしかも必要のない有り余っていると思われる物を少しだけ盗んだのである。これであれば盗まれた物をあきらめればいいのであり、実質の損害は盗まれた物の価値だけになる。現代のように人が生きてゆく上でどうしても必要な物を見境なく盗む盗人は盗人の風上にもおけないのである。世間を見渡す限りでは現代の盗人は恥も外聞も義理も人情も欠いているようである。悲惨なのは自分が生きるために必要な物を同類の他人から盗むことである。盗まれた人がぎりぎりの生活をしているような人であれば生活そのものが成り立たなくなる。その人も生活のためにまた盗みを働かざるを得なくなる。いつまで経っても出口のない地獄が見える。

「盗み」と「施し」は似ているところがある。

 「盗み」は「人の物を無断で密かに自分の物にすること」であるが、「施し」は「人の物を相手の好意により諒解をとって公に堂々と自分の物にすること」でもある。「施し」は「盗み」と同等に効率的である。何の努力もしないで利便性を手に入れることができる。乞食は一度やったら止められないという心境が良く解る。施しを受ける方は生活そのものに困っている人達で、必要なのは真に生活に必要な物であり、「盗み」と違って「豊富で有り余っている物」ではない。豊富で有り余っている物は巷に溢れているが、真に生活に必要な物は通常は巷に欠乏している。この中で生活する乞食の方達も大変と言えば大変である。

「施し」と言っても他人を積極的に助けるときの「施し」はまた別の意味を持つ。

 戦争や災害などで困っている人に対する「施し」は4倍も8倍もの効果がある。なぜかというと、受け取った物が100円のものであろうと、受け取った人には400円いや1000円以上の価値を生むからである。受け取るべき人達には生活に必要な物が一切ないのである。「施し」は本来こういう意味での価値を持たせなければならないと思う。「100万円の損があったから100万円の施しをする」という施しは100万円の価値しかない「施し」である。真に必要な人達にとっては10万円の施しであっても100万円以上の価値を生む。

我々が「施し」をする時、これっぽっちでは役に立たないと思うかも知れないが、

 そんなことはない、「盗み」の考え方を適用すれば少なくとも施した価値の2倍以上の効果を発揮する。これが真に必要とする人に真に必要な物が真に必要な時に施されれば4倍、8倍、16倍の効果を発揮するのである。そしてこれに心が通えば物の価値だけでなく人間同士の絆が出来上がってくる。そしてこの人的なネットワークが広がっていけばもっとすばらしい力を発揮する。これは重要なことである。これっぽっちでも相互扶助の「施し」の気持ちがみんなに持てれば世の中はずいぶんと住みやすくなると思う。また、こういう思いやりの心を各人が持って生活することが重要だと思う。

昔、ねずみ小僧次郎吉という盗人がいた。

 金持ちの蔵に有り余っている千両箱を盗み出して人助けのために貧しい庶民にバラ蒔いたそうである。ある意味では世直しの効果もある。しかし、盗みは盗みであり誉められたことではない。物が有り余っていると思われる金持ちだけが狙われたのではたまったものではないし、その判定基準が盗人個人にあるのはおかしい。現代はこういう世直しは許されない。富める者も貧しい者も富の程度と個人の能力に応じた「施し」を自らの意志で積極的にかつ平等に困っている人に行うのが原則であり、政治がこの仕組みを作ってやって手助けをしてやらなければならない。政治が「施し」をするわけではない。

政治が「施し」をすると勘違いして、

 庶民に無節操に金をバラ蒔いている政治家はねずみ小僧次郎吉となんら変わりない。国民の税金である国家予算から金を獲得して国の事業と称して無駄な金をバラ蒔いている姿があちこちで見受けられる。悪意であれば言語道断であるが、これが政治の仕事だと思っているし、政治とはそんなものだと高を括っている。実は、ねずみ小僧次郎吉が庶民に施しをしていたというのは後から付け加えられた美談で、本当はそんな事実はなく、ほとんどが病的な賭け事に散財していたという。政治家も「施し」と勘違いして国家予算を盗用して膨大な散財をし、国を滅ぼすような事がないよう祈るばかりである。

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