テレビの報道番組などで違法行為をしている連中に理由を聞くと、
「できるからやって何が悪い」「やって悪いことはできないようにしておけ」「できるようにしている方が悪い」「やるなと言われなかったからやった」「警察が取り締まらないならいい」「みんなやってる」等の言い訳を堂々と発表している。
何かおかしい。
まずは、やって良いか悪いか善悪の判断を自分自身でして、その判断に基づいて行動し、やった結果には自分で責任を取るのが普通であり、周囲の状況がどうであれ、関係する人達の考えがどうであれ、自分の行動に関する最終的な責任は自分で取るべきであり、どんな言い訳をしても免れるものではないはずである。周囲に流されている自分をいくら説明しても違法行為自体は消えることはないし、何の言い訳にもなっていない。やるからには自分で納得の行く説明ができる必要があり、それができなければやってはいけないのである。
この頃よくインターネットが犯罪に使われる。
違法行為を誘発するような情報を流しても取り締まられないから流すという人がいれば、そのような情報があるから違法行為をやったという人がいる。そして世間はそのような情報が流通しないように取り締まれと言う。
何かおかしい。
違法行為を誘発するような情報を流した人は、その結果責任を負うべきであり、その情報で違法行為をした人は処罰を免れない。あくまで個人の責任に帰結するものであり、それを防止するための社会環境を整えるのは二次的な対策に過ぎない。違法行為を誘発するような「きっかけ」は至る所に存在しそれをすべて封殺していたのでは情報流通はいびつになってしまう。言い訳を許さず結果に対して徹底的に個人の責任を追及できる環境を作ることが最も重要である。何をしてもいいが結果責任は個人に負わせ徹底的に追及する考え方を貫く必要がある。言い逃れは断固許さないし、一例たりとも認めてはいけない。
断崖絶壁の場所に安全のため柵を設けるべきか?
安全かどうかの判断を個人に委ねれば注意喚起の立て札だけで柵は必要ない。近づくと落下して死ぬ危険性があるのは見れば解る。だから誰も近づかないだろう。もし近づくのであれば個人の責任で命をかけて近づくことになる。安全かどうかの判断を個人に委ねられない(個人に判断能力がない)なら、侵入できないような頑丈な柵を作らなければならない。柵に不備があれば管理責任が問われ、落下事故の責任は柵の管理者がとらされる。
事故を起こした側は柵が不備だったから落ちたと言う。
しかし、柵の機能を誤解させた分については管理者の責任もあろうが、根本的には自分で最終的に安全確認する責任は免れないだろう。柵は管理者の善意から設けられているに過ぎないし、柵がなければ管理責任はないのである(誤認させるような不安全状態は除去すべきだが・・・)。
できるからやっていいわけではない。
できることと善悪判断は別のことである。できてもやっていけないこと、できなくてもやらなければならないことがある。その判断は自分でやらなければならない。悪いとわかっていてもできるからやってしまう、良いとわかっていてもできないからやらない、これではあまりにも場当たり的でただ流されているだけで、自分の存在意義も努力することも自ら判断することも放棄してしまっている。ましてやそのことが違法行為や悪いことをする言い訳や理由には全くならない。
自分で善悪判断して結果には自分で責任を持つという原則を無視して全てを他人のせいにしてしまっている。
論理のすり替えであるが、日本ではこれを許してしまう風潮がある。「まあ仕方ないか」という諦めの気持ちと他人への思いやりと勘違いしているのではなかろうか。そして自分もまた世間に甘えてしまっている持ちつ持たれつの関係に身を置いてしまっている。どこかで個人が自立してこの関係を断ち切らないといつまでもずるずると続いて行くことになる。
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