オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

適者生存と運者生存

2024年01月07日 | Weblog
環境に適応したものが生き残るのが適者生存である。

 通常は適者生存が普通に言われている。キリンの首が長いのは、高い所の餌を食べれるように適用したことによって生存することができたとよく言われる。多くの人がこの説に納得できるが、適応するまでには長い時間が必要だが、適応途中の首の長さのキリンの存在は見つかっていないようである。そうであれば、突然変異で首が長くなった種が結果としてたまたま高い所の餌が食べれて生き延びることができたとも言える。後者が運者生存である。

運者生存とは、運がいいものが生き残ることである。

 たまたま運がよく生き残ったものが現在に存在していると言う考え方である。時間をかけて適応したのではなくその時の環境にたまたま合致していた種族が生き残ったということになる。適者生存と運者生存の違いは、自ら環境に適応する努力をするのか、運に任せて何もしないのかの差であるのだろう。運は神頼みでもある。たまたま幸運が訪れることを祈るだけである。考え方の違いではあるが、現実はどちらも存在するのだろう。片方だけでは説明できないこともありそうである。

短いレンジで考えれば適者生存も納得できる。

 しかし、長いレンジで考えると、適者生存だけでは説明できないし、長期間をかけてずっと継続的に適応しているとは考えられない。現存するキリンが現在の環境に適応していずれ首が短くなるとは思えないし、首が長いままで生き続けている。たまたま運が良くて生き残ったかもしれないが、その偶然によって現在もそのままの姿で生存していると考えるのが納得がいく。この先何をきっかけにキリンが突然変異によって姿を変えるかわからないし、その姿がその時の環境に適応するのかは誰にもわからない。

運者生存の考え方を適用すれば、

 運は全ての生きとし生けるものに平等に降りかかってくる。運も良し悪しがある。幸運ばかりではないし、悪運もある。幸運か悪運かは 本人の受け取り方次第である。端的に言えば、ただの変化だけとも言える。その変化をいい方向に持っていけるかが鍵のようである。キリンはたまたま首が長くなったことを餌を採ることに活用したが、首が長いことによる欠点もたくさんある。それを乗り越えて現在も生存し続けていると言える。その変化を乗り越えて現在に至っているのである。

運がいいとか運が悪いとかあまり気にしないでいいと思う。

 幸運をうまく活用し、悪運を試練として試行錯誤と反省により幸運に変えるのである。運がいい人とか運が悪い人とかも冷静に考えると、いないのである。運という変化は万人に平等に生起する。そのとらえ方によって幸運にも悪運にもなるし、幸運をうまく活用し、悪運によるダメージを少なくし反省して次の幸運を待つ姿勢が必要なんだろう。これを実行する人が運のいい人となり、これが実行できない人が最終的に運の悪い人となる。

幸運に恵まれてもこれを生かさなければ意味がない。

 もっとひどい人はその幸運に気付いてもなくて見過ごしてしまっている。運のいい人はこれを見逃さないで活用する人なんだろう。運はどこにでも転がっている。見つけようとすれば、幸運も悪運も見つからないことはない。もしかしたら見過ごしていた運を見つけ出して、幸運は活用して悪運は避けることもできるかもしれない。運が悪いと落ち込んでいてもしょうがない。前を向いてより良い自分を目指してまずは歩き出すしかない。2024年の正月に突然思いついたことを書き留めた記事である。

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