オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

尊敬できないけど好きな人

2024年02月04日 | Weblog
昔、職場でパーティーがあって私の上司が悪酔いして事務所に帰ってきた。

 どうやらボスに酒の勢いを借りて日頃から言いたかったことをぶちまけたようだ。ところがボスに大上段から一喝され何も言えなくなって、最後は「何様と思っているんだ、自分の立場をわきまえろ」というような決まり文句で一蹴されたようだ。そのあとヤケ酒に近いほど大量飲酒して事務所に戻って我々の前で事のいきさつを説明して鬱憤を晴らしていた。そのあと、トイレに行ったのだが、気になって様子を見に行くと、トイレまでの廊下沿いに堂々とゲロを吐きながらトイレに向かっていた。しょうがないので、私は後ろからモップをもって掃除しながら追いかける羽目になった。次の日は何もなかったかのようにケロッとして我々の前に顔を出していた。

この上司を手放しで尊敬できるとは思わないが、私は何となく好きになってしまった。

 その人の裏の面を垣間見たことにより、人間味が増してきた気がした。彼は最初からパーティーの場を使って自分の部署の抱える問題点についてボスに意見具申しようと思っていたのだろう。それがけんもほろろに一喝されてその後ヤケ酒を飲んだのだと思う。その後の失態には努めて触れないようにしていたが、酒の席とはいえボスに嚙みついた根性は見上げたものである。後で聞いたが、彼とボスとの関係で、このような事件を起こしたのは二度目であるようだ、一度目はまだ互いに同等の関係で、最終的には彼の意見が採用される形となったそうだ。昔のボスは「お前の意見が正しいのは解った、ただこの場では黙っておいてくれ」と言われたそうである。いずれもその時点で重要な方向性を示す分岐点であったようである。

研究の部署にいた時に、

 先輩の研究員に能力はあるが閑職に甘んじている人がいた。やはり、過去に上司と喧嘩して人事評価を落としたために出世街道をふいにして研究職についていた。先輩はそのことを後悔していないし、いまだに自分は正しかったと信念は曲げていない。その後本来の能力を発揮して研究職でも多大な成果を残していた。専門領域では生き字引で、何を聞いても的確に答えてくれたし、大いに助かったものである。何が的確かというと、本質をついているのである。ただの文章の解釈だけでなく、その拠って来る所以や背景についても説明し、何が問題か、どうあるべきかまで丁寧に教えてもらった。この人はカラオケが大好きでよくご一緒したが、気持ちよく楽しく飲んで歌っているが、どう考えても歌は音痴で聞かれるものではなかった。でもこの人も恩人であるし尊敬には至らないが好きな人の一人だった。

同じく研究部署で、

 研究報告書の指導を受けに行くと、とにかく細かく指導する人がいた。てにをはや、誤字脱字、文法、用語、表現等をしつこく指摘し校正する。他の人たちはその人を避けていたが、私は反対に積極的に指導を受けていた。こんな素晴らしい校正ができる人は他にいないと思っていた。ただし、この人は報告書の内容には一切触れなかった。その内容を的確に表現するためにどうするかの指導をしてくれていたのである。まぁ、普通の人は、内容そのものに対して意見を求めて指導を受けに行くのであろうが、私は最終チェックの手間を省くため長い時間をかけて指導を受けていたのを思い出す。この人も尊敬できる人ではないだろうが、真面目で几帳面な好きな人の一人だった。今でも鉛筆一本で長文の報告書に目を通し校正してくれたあの人の眼鏡の奥のキラキラした目を忘れない。

昔、同僚達と旅行に行って、大部屋に宿泊した時、

 酒癖の悪い同僚がいて、夜中にトイレに起きたようだが、大丈夫かと気になって見てみると、トイレまでの通路が水浸しである。どうやら我慢できなくて失禁したらしい。本人は何事もなかったかのように布団に入って寝てしまったが、私は、大量のトイレットペーパーを使って後始末する羽目になった。通路がフローリングだったので、何とかなったが、真夜中に床掃除である。困ったものだが、それでもこの男を嫌いにはなっていない。もともと豪快な奴で、ズバズバとなんでも言い放つ性格で、根は悪い奴ではないし、何度も貴重な意見をしてもらったことがある。極めつけは、「お前に今の仕事は向いていないよ、やめて別の仕事に就いたほうがいいよ」であった気がする。貴重な意見ではあったが、そのまま仕事は継続して無事定年退職することができた。

何故にこんな昔のエピソードをグダグダと書いたかというと、

 今のご時世が、なんか不具合があると全てが悪いと切り捨ててしまう風潮にあることを危惧しているのである。人間は完璧な聖人君主ではない。聖人君主であるような人でも自分を不完全なものだと自認している。また不完全を自認する人こそ本当の聖人君主である。聖人君主は神ではなく、少しでも神に近づこうと日々の努力を怠らない修行の者でもある。聖人君主でもない我々一般市民は欠点だらけの不良品に近い。それなのに、事実としての欠点を突き付けて叩き潰して排除しようとするのはいかがなものかと思う。欠点は直せばいいのであり、直さなければならない欠点はいくらでもある。一生かかっても我々凡人は聖人君主にはなれないし、死なない限り神にもなれない。重要なことは、不完全だということを自認して、他にも寛容であることだと思う。

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