オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「物」「事」の話

2017年10月02日 | Weblog
「物」は空間に展開して存在している。

 「事」は時間の推移の中で展開し存在している。「物」そのものには時間の推移がなく現在の刹那に最終結果として存在している。「事」には物体としての存在はなく過去、現在、未来をつなぐ物語であり、その集大成としての精神世界である。こう考えてみると、現代社会が物質文明であり、その弊害から精神世界の重要性が叫ばれているが、わかるような気がする。現在に実在する「物」は刹那的であり、その物そのものに依存し過ぎることは慎まなければならないようだ。

「物」にまつわる「事」はある。

 その「物」の出来上がった過去の経緯であり、因って来る所以であり、その物にこめられた思い入れであり、目的精神などである。「事」を理解することで「物」の意味は大きく変わってゆく。ただし、物を使いこなすことは現在の文明の利器を使い捨てるだけであり、未来への発展は望めない。もし、未来への発展を意図するなら、自らその対象物の改善を試みる心構えが必要である。これを他人任せにして、現在ある物の利便性のみを享受している精神構造に問題があるのだろう。自分の中で自分なりの物語が作れないところに欠陥があるのだろう。

「物」を売るのでなく「事」を売れという主張がある。

 たとえ鉛筆一本であっても、鉛筆の芯や軸や塗装や形状などにこだわりがあり、そのこだわりを売り込む手法である。これによりただの鉛筆と差別化ができ、付加価値も増大する。使い捨ての鉛筆にないこだわりを要求するような消費者はこの鉛筆を使ってより高度な文化活動を行うであろう。書き心地が良く芯が折れず手に馴染んで疲れないような鉛筆であれば、進展する思考を中断することなく円滑な精神活動ができるであろう。安かろう悪かろうで、とにかく物を安く大量に効率的に製造して売りつけるような考えに発展性はあまりない。

「物」は人工物ばかりではない。

 自然物もある。この自然物も千変万化である。諸行無常と言われるように、一つとして同じものはないし、常に変異を続けている。現在ある自然物は過去の経緯から生まれた結果として存在する。これを無造作に使い捨てると将来の我々の役に立つ自然物は破壊または消滅してしまい役に立たないゴミと化してしまう。これも「事」に注目しなければならない。そこに流れるのは大いなる自然の摂理であり、この摂理を理解する努力が必要であろう。自然に学ぶのであり、自然の摂理に従うのである。

選挙目当ての政党間の騒動が連日報道されている。

 是非とも「物」と「事」に分けて考えてもらいたい。目の前の票や資金や保身や権力や議員数に惑わされることなく、それらの「物」を関連付けて過去・現在・未来の時空の中で一貫した物語が語れるような説得力のある精神部分を明らかにすることが重要であろう。これを注視している我々も、冷静にそこに目を向けてゆかなければならないと思う。目の前の刹那的な利害にこだわって間違った判断をすると、過去を否定し将来を台無しにする結果になってしまう。まさに自滅である。

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