信念とは思い込みでもあります。
同じ希望や期待や願望、欲求を持ち続ければ、これは信念となります。しかし、間違った信念もあります。これを人は「思い込み」と言ってあまりいい意味では使われません。正しい信念、間違った信念の分かれ目はどこにあるのでしょうか。それは自分で一生懸命に考えに考えて考え抜く以外ありません。この考える過程で、先人の知恵を学び、世界の英知を学び、自国、郷土、家族、兄弟、友人から学ぶ事が重要です。何を学ぶかと言うと、宇宙が、世界が自然が人類が自国が郷土が家族が兄弟が友人が、そして自分がよりよく生きるためにはどうしたらいいのかを学ぶのです。
思い込みの例をあげると、
地上に横たわっている丸太の上を歩くことは簡単にできますが、地上10メートルに渡された丸太の上を歩く事は普通の人は困難です。落ちた時の怖さが障害になって体が思うように動かないのです。この怖さと言う思い込みは間違いではありません。この怖さはわれわれ人間の生命を救う生来の知恵なのです。しかし、鍛錬によってこの怖さを克服する事もできます。地上の丸太も空中の丸太も同じだと何度も思い込む事です。思い込みは信念となって空中の丸太を歩く事が出来ます。
空中の丸太の上を歩く事ができないと言って悲観する事はありません。
空中の丸太の上を歩く事に必要性があって価値観を認めた者だけが鍛錬すればいいし、鍛錬した者は空中の丸太の上を歩く能力を身につけます。そして一つの自信を得る事ができます。この自信は他のものにも挑戦する勇気を生みます。そのぶんだけ「よりよい人生」にちょっと近づく事ができます。ただし、地上の丸太も空中の丸太も同じだと思い込む事は危険な事でもあります。空中の丸太から落ちる危険性がゼロと言うわけではありません。空中の丸太であることを常に考慮に入れておかなければなりません。危険性ゼロと思い込むのは無謀です。
信念にも善悪がありそうです。
善の信念を持つには、善の心を繰り返し反復するしかありません。この反復が善の信念を生みます。善の心とは、自分だけでなく周囲の人のために貢献し奉仕する心です。こんな事を言うと「馬鹿ではないか」と言われそうですが、これは間違いないことです。たまに「人のため」と思い込んでいても結局は自分の打算であった事を思い知らされますが、間違いなく人のために全てを投げ打つのが究極の善です。この究極の善を常に目指す事が正しい信念を持ち続けるコツだと思うし、自分の考えている善が100%正しいとは限らない事も頭に入れておく必要があります。100%正しければあなたは神様ですし、100%でないから日々努力しているのです。
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