オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

落ちこぼれ考

2008年02月01日 | Weblog

私は次男坊であるせいか、2番目の地位が居心地がいい。

 小学校の頃ガキ大将であったが、どうしても1番目のガキ大将にはかなわなかった。喧嘩をしてもかけっこをしても相撲を取ってもこの1番目の大将には勝たなかった。当然、ガキ大将グループの勢力も2番手であった。負けた時、よく学校の足洗い場の水道の蛇口のところで顔を洗うふりをして涙を隠して悔し泣きをしていたのを思い出す。大人になっても相変わらず出世頭ではない。九州の方言で言うところの「よだきんぼ」であり出世するはずもない。しかし、同僚で出世している者にねたみはない。

自分より出世している同僚達を思い浮かべると、

 この同僚達から過去に貴重なアドバイスを受けたことがよみがえる。「その考え方はおかしいよ」「俺はこう思う」「そんなことしてると嫌われるぞ」という忠告から、「ふざけるんじゃない」という叱責に近いもの、場合によっては「お前はこの仕事には向いていないから辞めて別の道に進んだ方がいいよ」という人生を変えさせてしまうような示唆もあった。いずれも私にとっては自分を反省させ相手の意見に納得させられる内容であった。昔は喧嘩もしたが、今思うと、今自分があるのは彼らのおかげであると素直に思える。彼らには私にそう思わせる何かがあった。だから彼らは自分より出世しそれなりの地位を確保しているのである。

出世頭でないことを卑下するつもりはない。

 人にはそれぞれの個性があり特性があり、それに基づく与えられた役割がある。先頭グループも中間グループも最後尾グループも同じように必要なのである。全体で機能しているのであり、先頭グループばかりの集団はあり得ない。全員がトップになるべき能力を持っていても集団になると必然と先頭グループ中間グループ最後尾グループに分かれる。そして、各グループ毎に必要性に応じて地位・役割が決まってくる。一匹狼でない限り集団の社会においては自然の原理である。

ところで、「落ちこぼれ」とは何だろう。

 何をもって「落ちこぼれ」と言っているのであろう。さしずめ私は「落ちこぼれ」であろうか?(少なくとも私は間違ってもそうは思わない。)自分から「落ちこぼれ」と思う人もいるだろう。他人から「落ちこぼれ」の烙印を押される人もいるであろうが、その基準は何であろうか?単に進度が遅い落伍者のことであろうか?人生はゴールのないマラソンである。落伍者と言っても進度はあとからいつでも取り返すことができる。若ければ若いだけその可能性は高い。そうであれば若者に「落ちこぼれ」はいない。大人になっても取り返せる可能性はゼロではなく「落ちこぼれ」と断定することはできない。

学校の成績にあえてランク付けするのは、

 各人の切磋琢磨を期待しての教育法の一環であり、これで全人格が決まるわけではない。我々の学生時代は成績のランク付けはもっと過激で乱暴だった。期末テストの順番と点数と氏名が教室の廊下に全員分有無も言わさず貼り出されていた。それでも我々はあっけらかんとしていた。「誰々は頭がいいね」とか「誰々は頑張ったね」とは言うが、誰も妬んだりひがんだりすることはなかった。それは成績で全人格が判断されるという認識があまりなかったからである。頭のいい人や努力した人がいい学校に行くのは当然である。その反対はおかしい。それだけのことである。彼らにはいい学校で優秀な成果を修められる可能性を秘めておりその可能性を潰すことは許されない。その他大勢もそれなりに自分の特性に合わせて自分の可能性を追求するのである。結果は数十年後の同級会の席でわかる。

小学校や中学校の同級会をたまにやるが、

 大人になると昔の優等生も劣等生も関係ない。みんなそれぞれに地位・役割を得て立派に社会に貢献している。職業の貴賤とか収入であえてランク付けするのは意味がない。成功した者も失敗した者もあるだろうがそれは人格とは関係ない。現時点における結果であり、幸運に恵まれたか不運に遭遇したか、幸運をつかみ損ねたか不運から逃れたか、人生の岐路での選択が吉と出たか凶と出たかに過ぎない。その結果を責める者は誰もいない。

今の教育制度はあまりにも成績に偏重しすぎる。

 そのために「落ちこぼれ」という幻想の集団を生みだしている。自分を「落ちこぼれ」と思い悩むことはないし、誰も「落ちこぼれ」と烙印を押す権限はない。ただ進度が遅れているだけである。遅れた人はゆっくりと大器晩成を目指せばいいのである。時間は十分あるし自分の人生である。何も気にすることはない。速い人は速いなりに、遅い人は遅いなりにそれぞれの人生が開ける。これくらいのゆとりと包容力を持った教育制度を目指してもらいたい。飛び級があっても留年があっても登校拒否でも一向に構わない、要は各人の可能性の芽を摘まないことが重要である。

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