原因があるから結果があるという考え方である。
世の中は皆さん結果を見てその原因を見つけて納得するようである。しかし、これは結果論であって、原因があったら必ず結果があるわけではない。原因があっても何も結果に至らないことがたくさんあるし、かえってその方が多いし、原因はあっても何も結果を生まないのがほとんどで、たまたま結果に至ったものを見てその結果について検証し、その原因を探して、多分これだろうと分析して結論を出し納得しているようである。
我々は短絡的に原因と結果を結び付けて考えてしまう。
本当は原因から結果に至るまでたくさんの要因が絡み合って、いろいろな条件が複雑に交錯して、奇跡に近い確率で結果を生んでいるのである。それなのに最初の原因だけを見て結果に結びつけるのは間違っているような気がする。それじゃあ、誰でもその原因を作り出せばその人と同じ結果が生じるのかと問い直したい。そんなことはないだろう。必要条件と十分条件と必要十分条件という考え方があるが、必要十分条件には何も新規なものはない。
創造的な自由な発想には必要条件もしくは十分条件だけしかない。
一方通行の思考の中で、次々と新しい条件が生まれ、新たな行動を展開してゆく。はっきり言って行先も目的地も明確にはわからないままに試行錯誤を繰り返しているのであり、その試行錯誤がいい結果を生んでいる。この試行錯誤がなければ何も新しいものは生まれない。試行錯誤というと聞こえはいいが、苦悩しもがき苦しみ七転八倒してただ上を目指して努力しているだけである。
その時に、何かが見つかる。
正しいであろう道筋が見つかるのである。この継続の先に何らかの結果を生じるのである。一番重要なのはこの試行錯誤の段階であって、結果の良し悪しそのものではない。結果を評価するのは周囲の者であって本人ではないし、本人がその結果に満足できればそれでいいのであり、その結果は中途段階でしかないし、これからもさらに上を目指して試行錯誤を繰り返すのである。結果が固定されるわけでもない。またその時点の他人の評価に満足するわけでもない。
こう考えてくると、原因⇒結果という単純な思考は戒めるべきである。
その中間の部分の要素がほとんどであり、その部分が大切なのであるし、省略できないのである。自然現象はこのようにして動いている。我々が言うところの「原因」とはほんのちっぽけなきっかけに過ぎない。そんな取るに足りないきっかけのみで原因だと断定するのは結果論では可能かもしれないが、試行錯誤に暗中模索の真っただ中にある人にそんなちっぽけなきっかけは何の役にも立たない。今新たな「原因」が目の前に存在しているのである。
そんな無限大の「原因」の積み重ねによって現在の「結果」が生まれている。
今現在の「結果」は膨大な宇宙規模の神の領域にも及ぶ世界から生じた無限大に近い「原因」の下に生じている。ひっくり返すと、今現在の「結果」は宇宙規模の神の領域も含めた世界と影響しあい結びついているのである。全く関係ないと思うのは早計である。そして、我々が語るべきはその部分なのである。「原因」と「結果」を結び付けるだけではほとんど意味がない。だからこそ多様性が存在し、全く同じものは存在しないし、今の瞬間に過去のものは新しい何かに変化している。
猿蟹合戦の柿の種の昔話でいうと、
柿の種があるだけでは何も生じない。その柿の種を蟹が地中に埋めて、水と肥料を施し、毎日大切に育てた結果、立派な柿の木となってたくさんのカキの実をつけたのである。原因となる柿の種があったから結果としてカキが実ったわけではない。確かに柿の種がなければカキは実らないが、柿の種があっただけではカキは実らないのである。しかも場合によっては途中で枯れてしまう時もあるし、渋柿かもしれないし、実さえつけないかもしれない。
「原因」と「結果」を安易に結びつけ評価することは、
結果が良かった時だけであり、結果が出せなければこの努力は無になってしまうが、この努力がなければ良い結果も生じないのである。結果が悪くて世間に害を及ぼす場合もその原因を探求するが、これも同じで、悪くなった経過が重要であって、原因を取り除けば悪いことが生じないわけではないし、世の中は悪いことの原因になることは膨大な量満ち溢れている。その原因にぶち当たった時にどれを選びどの方向に行くのかで良し悪しは決まるのである。
メディアの報道やお偉いさんの発表を見ていると、
短絡的に「原因」と「結果」を結び付けた内容がいかに多いことかとあきれてしまう。そして原因を修正すれば結果が良くなると思っている。大いなる勘違いである。さらに良くするためには、今現在から具体的な試行錯誤を始めなければならないのである。そのために何を具体的にやるのかを明確にして実行すべきなのである。ルールを改正して「原因」を取り除けば解決したと思っているが、そんなことをしたら天文学的な数字のルールが必要となる。そんなの無理だろう。大いに反省してもらいたい。
世の中は皆さん結果を見てその原因を見つけて納得するようである。しかし、これは結果論であって、原因があったら必ず結果があるわけではない。原因があっても何も結果に至らないことがたくさんあるし、かえってその方が多いし、原因はあっても何も結果を生まないのがほとんどで、たまたま結果に至ったものを見てその結果について検証し、その原因を探して、多分これだろうと分析して結論を出し納得しているようである。
我々は短絡的に原因と結果を結び付けて考えてしまう。
本当は原因から結果に至るまでたくさんの要因が絡み合って、いろいろな条件が複雑に交錯して、奇跡に近い確率で結果を生んでいるのである。それなのに最初の原因だけを見て結果に結びつけるのは間違っているような気がする。それじゃあ、誰でもその原因を作り出せばその人と同じ結果が生じるのかと問い直したい。そんなことはないだろう。必要条件と十分条件と必要十分条件という考え方があるが、必要十分条件には何も新規なものはない。
創造的な自由な発想には必要条件もしくは十分条件だけしかない。
一方通行の思考の中で、次々と新しい条件が生まれ、新たな行動を展開してゆく。はっきり言って行先も目的地も明確にはわからないままに試行錯誤を繰り返しているのであり、その試行錯誤がいい結果を生んでいる。この試行錯誤がなければ何も新しいものは生まれない。試行錯誤というと聞こえはいいが、苦悩しもがき苦しみ七転八倒してただ上を目指して努力しているだけである。
その時に、何かが見つかる。
正しいであろう道筋が見つかるのである。この継続の先に何らかの結果を生じるのである。一番重要なのはこの試行錯誤の段階であって、結果の良し悪しそのものではない。結果を評価するのは周囲の者であって本人ではないし、本人がその結果に満足できればそれでいいのであり、その結果は中途段階でしかないし、これからもさらに上を目指して試行錯誤を繰り返すのである。結果が固定されるわけでもない。またその時点の他人の評価に満足するわけでもない。
こう考えてくると、原因⇒結果という単純な思考は戒めるべきである。
その中間の部分の要素がほとんどであり、その部分が大切なのであるし、省略できないのである。自然現象はこのようにして動いている。我々が言うところの「原因」とはほんのちっぽけなきっかけに過ぎない。そんな取るに足りないきっかけのみで原因だと断定するのは結果論では可能かもしれないが、試行錯誤に暗中模索の真っただ中にある人にそんなちっぽけなきっかけは何の役にも立たない。今新たな「原因」が目の前に存在しているのである。
そんな無限大の「原因」の積み重ねによって現在の「結果」が生まれている。
今現在の「結果」は膨大な宇宙規模の神の領域にも及ぶ世界から生じた無限大に近い「原因」の下に生じている。ひっくり返すと、今現在の「結果」は宇宙規模の神の領域も含めた世界と影響しあい結びついているのである。全く関係ないと思うのは早計である。そして、我々が語るべきはその部分なのである。「原因」と「結果」を結び付けるだけではほとんど意味がない。だからこそ多様性が存在し、全く同じものは存在しないし、今の瞬間に過去のものは新しい何かに変化している。
猿蟹合戦の柿の種の昔話でいうと、
柿の種があるだけでは何も生じない。その柿の種を蟹が地中に埋めて、水と肥料を施し、毎日大切に育てた結果、立派な柿の木となってたくさんのカキの実をつけたのである。原因となる柿の種があったから結果としてカキが実ったわけではない。確かに柿の種がなければカキは実らないが、柿の種があっただけではカキは実らないのである。しかも場合によっては途中で枯れてしまう時もあるし、渋柿かもしれないし、実さえつけないかもしれない。
「原因」と「結果」を安易に結びつけ評価することは、
結果が良かった時だけであり、結果が出せなければこの努力は無になってしまうが、この努力がなければ良い結果も生じないのである。結果が悪くて世間に害を及ぼす場合もその原因を探求するが、これも同じで、悪くなった経過が重要であって、原因を取り除けば悪いことが生じないわけではないし、世の中は悪いことの原因になることは膨大な量満ち溢れている。その原因にぶち当たった時にどれを選びどの方向に行くのかで良し悪しは決まるのである。
メディアの報道やお偉いさんの発表を見ていると、
短絡的に「原因」と「結果」を結び付けた内容がいかに多いことかとあきれてしまう。そして原因を修正すれば結果が良くなると思っている。大いなる勘違いである。さらに良くするためには、今現在から具体的な試行錯誤を始めなければならないのである。そのために何を具体的にやるのかを明確にして実行すべきなのである。ルールを改正して「原因」を取り除けば解決したと思っているが、そんなことをしたら天文学的な数字のルールが必要となる。そんなの無理だろう。大いに反省してもらいたい。
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