オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

人の命は地球より重いってホント?

2020年11月24日 | Weblog
よく言われるのを聞くことがある。

 天邪鬼な私はそうは思わない。命に重さはないのである。先人の研究者が命の重さを測ったそうである。死ぬ間際の人を体重計に乗せて、死ぬ前と死んだ後で体重が変化するかたくさんの人達で一生懸命実験したそうであるが、結論はほとんど変化がなかったそうである。命が存在した時と命が消失した時の体重の違いは確かに命の重さかもしれないが、計測できるほどの違いはなかったそうである。はっきり言って、命に重さはないようである。

人の命の重さは感覚的なものであろう。

 人の命の感覚的な重さを地球の重さに例えたものであろう。「とっても重い」と言いたいのだろう。でも命に重さはないのである。それでは、命とは何だろう。重さがないということは物質ではないのである。世の中は物質だけで成り立っているわけではない。確かに物質は手に取ることができて見ることができて存在を確認できるが、精神という心は手に取ることも見ることも存在を確認することもできない。

唯物論や唯心論という考え方がある。

 しかし、物心どちらにも偏向してはいけないようである。均衡のとれた中庸が最も理想的なのである。しかし、人間はどうしても唯物論に陥ってしまう。物質が主体でなければ安心できないし、拠り所を得ることもできない。よって世の中は物で溢れかえっているし、物に振り回されている。ある程度物がなくても何も困らないはずである。心が満たされれば物なんて必要ないはずである。そんなことをぼんやりと考えている。

物質の束縛から解き放されたらどんなにか自由であろうか、

 地球規模で世界中を飛び回れるし、宇宙空間だって神の世界だって動き回れる。物質に縛られるから動けないのである。心は無限大から無限小の世界を飛び回ることができるのである。この心がすなわち命なのだろう。この命は一つの細胞の中にも存在する。その細胞の膨大な組み合わせで人間は形作られている。その組み合わせが崩壊したとき人間の命は消滅する。しかし、個々の細胞に宿った命は消滅することはない。

人間を形成するのは組み合わせに過ぎない。

 組み合わせ方には質量なんてない。これが命であろう。だから人間は一人一人違った命の組み合わせをもって生きているのである。それでは、一つ一つの細胞に宿る命って何だろう。私は宇宙ニュートリノのようなものに近い気がする。質量はほとんどなくて、遠く宇宙から飛来する謎の粒子である。一応「粒」というが、質量はない。そのために一瞬で地球を貫通することができる。一瞬という時間も存在しないかもしれない。こんな謎の現象が存在するのである。

地下深くにこれを検出する実験施設がある。

 スーパーカミオカンデである。そして検出に成功し、その成果でノーベル賞を受賞した。これはいったい何だろう。この世界はこのようなもので満ち溢れているのである。これと似たものが我々この世に生きるものの生命そのものではないだろうかと勝手に思っている。物質ではない何かなのである。実体としては生命であり心であり精神なのだろう。身体は確かに物質であるが、生命や心や精神の入れ物に過ぎない。そんなことを考えて、命に重さはないという結論に達したのである。

人間の一生で言うと、

 最初の誕生は一個の生殖細胞である。これが細胞分裂を繰り返し人間の形を作り上げる。その後、この世に生まれて一人の人間として生き始める。しかし、一人で生きるのには限界があり、母親や父親、家族、地域社会、国、世界と様々な介入を受け入れながら、かつ影響を受けながら社会生活の中で生き続ける。とは言え、社会という構造も万能ではないのである。ここで物質と精神の調和が求められる。これが新しい中庸の追求である。未来はここにある。新型コロナの教訓として、この新しい中庸が求められていると思う。


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