オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

説教と説得

2019年12月11日 | Weblog
教師の働き方改革が話題に上がっている。

 教師の仕事が増大して勤務時間外の残業を強いられ、休暇も十分に取れない状況だという。そんなこともあって、日本国政府の「働き方改革」である。その中身は残業を減らしなさい、休暇はちゃんと取りなさい。と言うことらしい。何が改革なのかよくわからないし、本質的な改革とは程遠い気がする。国のやることはいつもこんな体たらくである。少しは反省してもらいたいものである。上から下に上意下達すれば下は従ってくれると思い込んでいる。

反省すべきは国の上層部である。

 内閣であり、議会であり、文部科学省であり、教育委員会であり、教育制度そのものである。なぜ教師の仕事が増大しているのかを反省すべきである。上層部の理不尽で実現不可能で一貫性のない要求と強制が多すぎるのであり、これに教育現場や保護者が混乱しているのである。上層部から要求される各種の報告書や記録を作成するだけでもその事務作業は膨大なものになっているのだろう。

これをそのままにして勤務時間を削減すれば

 主体の学生教育そのものにしわ寄せがきてしまう。これまででも学生教育そのものに費やす教育時間が犠牲になってきていたのではないだろうか。だから教育時間だけでなく教育の質そのものも低下している。教師は自由に教育をやっている暇がないという笑い話のような状況が生じている。戦後の民主主義体制の中で教育は悪化の一途をたどっている。そして、ますます悪くなりつつある。一体どうしたんだろう。

教育現場や保護者はもっと怒ればいい、反発すればいい。

 上層部から強制されてももっと反抗すればいい。「問題がある」「おかしいのではないか」「実現困難である」「一貫性がない」「効果がない」「間違っている」などと声を大にして反旗を翻すべきである。黙って従うだけでは現状はいつまでたっても改善しないし、その最大の犠牲者は被教育者である。教育される側の現状を最も知っているのは教育現場の人達である。是非学生達のためにも毅然と立ち上がってほしいものである。

我々の学生時代には「説教」をする先生がいた。

 今は「説教」という言葉が死語になりつつある。「説教」するというと、みんなから嫌がられ疎んじられのけ者にされる。「説教」とは、教え導くために言い聞かせることである。教え導くことは知識でも能力でもない。ましてや教育制度で実現できるものではない。教育を担任する教師そのものが教え導かなければならない。教え導くものはどこかに用意されているわけではない。こう考えると何か勘違いされている気がする。

昔がいいとは思わない。

 確かに理不尽なこともあったし、体罰もあったし、変な先生もいた。しかし、そこには「教え導く」という心があったと思う。だから我々生徒の心に響いて、教え導かれたものが自分の宝物になっている。知識や能力そのものは先生に教えてもらわなくても自分でも獲得できるが、先生が「教え導くもの」は先生から受け取らないと未来永劫獲得できない。教育現場の人達は大いに「説教」すべきなのであり、保護者も自分の子供に「説教」すべきなのである。

他人から嫌われることはやりたくない。

 しかし、嫌われることを敢えてやることも必要なのである。皆がお互いに嫌がっていたのでは何も変わらないしなるようにしかならない。少なくとも教える側としては嫌われても教えるために強制しなければならないことがあるだろう。教える側とは教師であり親であり、上司であり先輩であり、時には同僚や仲間や部下である場合もある。そこの部分のコミュニケーションがなければ「説教」は成り立たない。

「説得」という言葉もある。

 その意味は「コミュニケーションによって、受け手の理性や感情に働きかけ、相手の自発性を尊重しながら送り手の意図する方向に受け手の意見、態度、行動を変化させること。」とある。いろんな場で「説得」している場面を見たことがない。「説得」も死語になりつつあるのだろうか?どこを見ても平和的な話し合いばかりである。話し合いの結果は中途半端な妥協策だけである。

「説得」するためには、堅固な意思と覚悟が必要である。

 当然ながら説得内容は自分で準備しなければならないし、相手が納得できるような内容にしなければならない。問題があれば何が問題かを明らかにして、自分なりの解決策を提示しなければならない。「説得」に妥当性があれば周囲は賛同するし協力してより良いものを追及してゆくこととなる。誰かが「説得」する行為を始めないと物事は前に進むことはない。黙って見過ごすことは許されないのである。

自分の周囲に問題を見つけたら

 「説教」と「説得」の心意気が必要なのである。時には「説教」し時には「説得」しながら、自分の信じるところを主張してゆくのである。ただ文句を言うだけで騒ぎまくっている連中とは一線を画さなければならない。マスメディアは「説教」や「説得」ができない。できても警鐘を鳴らすくらいである。反対に体制側が発する「説教」や「説得」には大いに反論すべきなのである。ただし、日本政府の政策は「説教」や「説得」にもなっていない。ただ、勝手に出した結論を押し付けるだけになっている。

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