「差別してはいけないもの」とは何だろう。
私の考えるところでは、諸外国一般の例から主要なものは「人種」「国籍」「年齢」「性別」「宗教」ではないかと思う。これらは、考えてみると生まれてきた時にすでに決まっているもので自分ではどうしようもないものである。自分ではどうしようもないものでもって差別されるのは道理に合わないというのが「差別廃止」の根幹ではないかと思う。反対に自分の能力や才能や努力次第でどうにでもなることは自由に競争すべきであるというのが、民主主義であり自由主義であり平等主義である。「差別廃止」は民主主義や自由主義や平等主義を有効に機能するために必要な最低限のルールであるとも言える。
日本は単一民族であり、人種差別に起因するトラブルは少ない。
しかし、それは人種差別の機会が少ないというだけで、もしたくさんの人種が入り乱れた状況ではどんな反応を示すかは別の話である。戦争中の事例や関東大震災の時の朝鮮人迫害や、近くは在日外国人に対する差別(「○○○人入場お断り」など)に片鱗が見える。日本人と距離をおいて関係ない第3者としてお付き合いする分には外国人に対しては非常に好意的で親切な態度を示すが、同じ仲間としてお付き合いしなければならないようになると、またはいざという時(危機状態や重要な局面)になると頑強な拒否反応を示すようである。見方を変えると日本人同士の本来の強固な小集団的団結心の現れでもある。と言うことは、日本にも潜在的には人種差別の気質があり、これから国際化してゆくとこの気質が大きな問題になりそうである。
国籍も同じである。
差別を受けないとは、どこの国の人でも日本国籍をとることが可能で、日本人がどこの国籍になろうと関係ないことである。そして日本人がどこの国籍であっても良いように国籍によって外国人を差別することは許されないことになる。日本には戸籍制度があり本籍という考え方があり今でも残っている。私の本籍は、役所の書類手続きの利便性から引っ越しの度に変更して持って回った。途中で住所の不整合が生じ、今現在の私が過去の私と一致している証明をするため、役所の人から「本籍は頻繁に変えるものではありません」と注意される始末であった。日本国内の本籍さえ閉鎖的な日本において国籍が自由な考えになるのは当分は無理なようである。ここにも国際化社会で差別の気質が大きな問題になりそうである。
年齢も同じである。
「若いから」「年とっているから」は本人にはどうしようもないことである。これで差別することは本来は許されない。雇用の話をすれば、政治家は「男女機会均等法」にはご執心だが、「老若機会均等法」のような考えは全くない。発想だにもしないのではないか。能力や技術があり働く意欲さえあれば若年も中年も熟年も老年も関係ない。実力の評価で自由かつ平等に雇用機会が得られるのが民主主義であり、これこそ年齢の差別廃止をしなければならない。ところが求人広告を見てみるとなんと年齢制限の多いことか・・・。当然高齢者の雇用機会が不当に狭められ差別されている。
性差別とは「男」「女」の区別だけではない。
区別は差別ではないし、区別はしても差別はしてはいけない。「男」も「女」も同じだとして区別さえ許さないのはあまりにも乱暴過ぎるし、どう考えても「男」と「女」は同じではない。しかし、性に関しても自分ではどうしようもないことであり差別することは許されないのである。結婚しているかどうか、子供が居るかどうか、もっと言えばゲイやホモやレズであることでさえ差別の対象としてはならないのである。日本人の感覚では就職の面接で年齢や既婚か子供が居るかなどを確かめるのは常識になっている。しかし世界では常識ではないし、こういう理由で雇用を制限した事実があったら裁判沙汰になるそうである。どうやら日本と世界の差別の考えは根本から違うような気がする。そして日本国内では形だけの男女平等はあるが、実質的には堂々と性差別がまかり通っているのである。
宗教については、
まず、日本には宗教が先祖代々子々孫々にわたる伝統的なものだという文化が途絶えている。昔はあったのかも知れないが、どういうわけか途絶えてしまっている。従って、日本における宗教は後天的な知識でしかなく、それほど重要視されないが、諸外国の場合は生まれ落ちたときに宗教が決まっている。自分ではどうしようもないのである。このどうしようもないものでもって差別されても理不尽である。宗教の場合にも日本人の本格的な差別の気質が外に出る機会がこれまでになかったと言った方がいいかも知れない。国内的にも国際的にも本来の宗教の考え方が根ざせばこれまた大きな問題になりそうである。卑近な例ではオウムやライフスペースや法の華などにおいて信者と信者でない者との間で混乱が露呈している。
個々に差別について考えてきたが、
差別していけないものは、自分自身の力ではどうしようもないものである。病気や知恵遅れや身体的な障害も自分ではどうしようもないものである。しかし、自分でどうしようもないもの以外は大いに自由に競争すべきなのである。日本の場合は自分の力で如何様にでも開拓できるもの(自分の才能や能力)でもって差別することがいけないという間違った考えがある。そして、自分ではどうしようもない境遇にある者には憐憫の情をもって腫れ物にでもさわるように全てに渡って一方的に特別の待遇をする(結局は差別している)。何か勘違いしているのではないかとつくづく思うこの頃である。
「ハンディキャップ」と言う言葉がある。
大本の語源は、帽子(cap)の中に当たりくじを手(hand)で引いた者が罰を受けるゲームから来ている。「ハンディキャップ」を受けるかどうかはくじ引きの結果で本人にはどうすることも出来ない。その「ハンディキャップ」そのものについて責められても本人にはどうすることも出来ない。そしてその「ハンディキャップ」は生まれた時から決められていた、もしくは人生の途中で負わされたものであれば、本人にどうすることも出来ないし、出来ることはこの「ハンディキャップ」を克服して新たな人生を創り出して行くだけである。
日本人が「ハンディキャップ」という言葉を使う場合、
障害を負った相手の不利な部分に光を当てて使う。「ハンディキャップ」の訳語が「障害」となっていることでも解る。相手がどれだけ障害(ハンディキャップ)を持っているかという見方でもある。しかし、本来は障害を持っている人が健常者と平等に競争するために健常者に同等のハンディキャップ(不利な条件)を負わせるという発想である。障害者は最初からハンディキャップを課せられているので、ハンディキャップを負うべきは健常者なのである。ゴルフやボウリングに言うハンディキャップは上級者(プロ)と初心者(アマ)が平等に競技するためのルールである。そこには全ての者が平等にかつ自由に競争できるしっかりとしたルールを創るべきだという心意気が感じられるし、どんな人にも自由に競争できる機会と場が与えられるという民主主義の根幹を感じ取ることができる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます