オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

不安、恐怖、怒りの状態で盲目になってはいけない

2011年10月02日 | Weblog

10月から東京都で暴力団排除条例が施行されると言う。

 暴力団がはびこる手段は、一般市民や組織団体に対して不安、恐怖、怒りの状態を生起させて、巧妙に意思を操作する事によるのではないかと思う。反対に、不安、恐怖、怒りに対して冷静に対応できれば暴力団の付け入る隙間はなくなると思う。不安、恐怖、怒りの元凶となるものは一方的で無法な暴力に他ならない。この暴力に対して暴力で対抗する事は暴力を企てる側にとって願ってもないことで、負の作用として対等の立場を取る事が出来る。解りやすく言えば善人を悪人の世界に引き摺り下ろす事ができる。どう考えても暴力に暴力で対抗する事は根本的な問題解決にはならないと思う。当然ながら暴力は問題を大きくするが暴力で問題は解決しない。暴力団排除条例が暴力に暴力で対抗するものにならないことを祈るばかりである。

死刑で問題が解決しないのは真実のようである。

 犯罪の対象を排除するだけでなく、犯罪そのものの根幹の原因を取り除くためには、犯罪の対象は最後まで残して、なぜ犯罪が発生したのか、どうすれば犯罪が生起しないかを徹底して分析し探求しなければならない。被害者側の感情を考慮した報復処置としての死刑も本来は許されない。被害者側も死刑を望む前に犯罪行為そのものの真実や何故犯罪が起こったのかその原因を知りたいのが本心ではないかと思う。当該犯罪者による新たな犯罪を未然防止するための死刑も根本の解決策ではなく、同様の犯罪者が新たに現れることの防止にはなっていない。最終的には犯罪を根絶することを目標として分析し、探求し問題解決を図らなければならない。言い方は悪いが、犯罪者は問題解決の鍵を握っている重要な検体でもある。これを隠滅させてしまう事は得策ではないし、罪を犯した者にはその実態と真実を明らかにする責任がある。

どんな凄惨な犯罪であっても、目をそらす事はあってはならない。

 生起した直後にはたとえ感情的になったとしても、現実を見つめて容認し早い時期に客観的な冷静さを取り戻さなければならない。一時的な極度の不安、恐怖、怒りから盲目的になってはならない。感情的になっている間の過激な反応は真の解決策には通じない。いかなる犯罪であっても寛容的に容認し、冷静に客観的に観察し、分析し、問題点の解決策を探求する姿勢を堅持するのがあるべき姿であろう。この堪忍と寛容の精神は理想ではあるが、実現するのは困難を伴う。日本国内の状況を見ていると、マスコミや国民世論があまりにも感情に左右されて冷静な判断を欠いている場面を多く見かける。これではその場限りの対処だけで、長期の大所高所に立った建設的な解決策は期待できない。そして不毛なままで終る事が多い。

原発問題も同じような気がする。

 原発の根本の解決策を探求するのではなく、最初から排除してしまおうとする勢力が現時点では強いようである。航空機墜落事故が起こったら、危険だから航空機を全てやめてしまえと主張するのと同じくらい乱暴である。何故このような事故になったのかを徹底して探求するのをやめて、切り捨てようとしている。この事故には技術的な問題だけでなく外にもたくさんの教訓を含んでいる。政治、経済、外交、防衛、教育、科学技術、防災、地方自治、社会生活、報道等多岐に及んでいるし、これまでの歴史的な経緯も見直すべきであろう。現時点では未曾有の事故に感情的になりすぎて、不安、恐怖、怒りが最高潮に達して盲目的になっているが、そろそろ冷静さを取り戻す必要がある。否定派ばかりでなく肯定派もいて、相互に建設的な意見を交わすことが必要だと思われる。どうすれば安全な原子力発電が実現できるかの意見も出てきて当然だと思うし、将来のエネルギーをどうするかの現実的な対応も必要だろう。







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