膨大な情報が世界を駆け巡っている。
一人の人間としては、この情報に押しつぶされそうな危機感を持っている。しかし、よく考えると、押しつぶされる必要はないのである。情報を自由に選択する権利は個人が保有している。必要なものだけ取り入れて、不要なものは破棄すればいいのである。情報がどんなに膨大であっても何も問題ないはずである。危機感を持つ人は、この自分という主体性に自信がなくて情報に振り回されている人なのかもしれない。周囲の情報に自分を合わせようと必死になっている人なのかもしれない。世の中にあふれている情報は多様であり、そこに主体性はなく支離滅裂なのである。
情報は多様性を持つことが極めて重要である。
このことにより冷静かつ正確な情報の選択ができる。情報が偏向していればいびつな選択しかできなくなる。そのような意味で現代の溢れるような情報は我々にとって極めて貴重である。ネットワーク社会の弊害ばかりが強調されるが、あくまでネットワークは情報を得るための道具に過ぎない。その道具は瞬時にリアルタイムに大量の情報をグローバルにかつすべての分野にわたって獲得することが可能である。こんな便利なものはない。
ネットワークのなかった社会は、
限定された地域の限定された分野の使い古された情報しか手に入れられなかった。これはこれで、本当に必要なものとしてまとめられた情報ではあるが、万人がこれを共有することはできなかったし、一部の専門の人の専門的な情報として取り扱われ、大衆に公開することはなかった。この貴重な情報を得るためには相当の労力と時間を要しただろうと推測できる。現代ではそのような情報をディジタルで誰でも瞬時に取得するのが可能である。
ただし、ネットワーク上の情報はすべてが正しいわけではない。
正確で正しい情報ばかりではないし、多様性があるということは、無駄な情報が多いことでもある。それゆえに、より個人の主体性が求められるのであろう。自分の主体性を持っていないと、ネットワークの情報は何も意味しないことになる。ネットワーク情報に意味づけするのは個人の主体性なのである。意味づけして作り上げた自分だけの情報に対する責任は、当然自分に帰結する。ネットワーク情報の弊害を嘆いても仕方ない。
偽の中身のない信頼できない情報は拒否すればいいのである。
拒否するための自分の主体性を磨くのは、偽の中身のない信頼できない情報である。全てが正しい正確な情報であれば、だれも疑問を持ったり、問題点を見つけたり、新たな創造を生むことはない。こんな情報も必要なのである。これを世の中から抹殺することは許されない行為である。全員が主体性をもって情報に接すれば、本当に無駄な情報は自然に消滅してゆく。消滅せざるを得ないのである。
フェイクニュースが横行するのは、
個人の主体的な選択が狂っているからである。ネットワークを信頼し過ぎている弊害かもしれない。ネットワークに流されている情報に嘘はないと思い込んでいるのである。これに便乗してフェイクニュースが大手を振って横行することになる。みんながフェイクだと見破れれば誰も相手にされず、この情報は消滅せざるを得ないのである。フェイクニュースを生んでいるのは一般大衆かもしれない。安易に信頼してしまう盲点をついてフェイクニュースが生まれる。
何故主体性を発揮できないのだろう。
それは、個人の集中力が弱っているのである。一つのものに集中して思考すれば正しい結果を得ることができる。いろいろな情報をあれもこれもと同時並行的に処理していると、一つ一つの判断力は分散されそれぞれの結果は中途半端になってしまう。同時並行的な処理はいかにも効率的だが、人間はコンピュータと違って基本的にこのような能力を保有していない。物事は一つ一つ順次処理するしかない。脳は一つだけなのである。
国を挙げてディジタル化が叫ばれているが、
人間に対して同時並行的な処理を要求するようなディジタル化は弊害をもたらすのだと思う。あまり考えもしないで人間が次から次に情報を処理していっても最終的には正しい結果が得られないし、正確な処理能力も低下してしまう。学校の学生に一台ずつタブレットを整備する話があるが、たぶんタブレットでは集中力は期待できないであろう。やはり紙の教科書で内容に集中してしっかり取り組んで学習した方が効果がありそうである。完璧な同時並行的処理能力を保有するのは伝説の聖徳太子くらいである。
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