相撲の土俵に女性が上がることを認めない問題が脚光を浴びている。
前々からくすぶってはいたが、土俵上で挨拶中に突然倒れた患者の救命行為に客席から駆け付けた女性看護師に土俵を下りるようにアナウンスしたことに対して、大勢の観客の前でしかも映像も残っているため、メディアで大々的に報道されて全国的な問題へと発展している。相撲協会も対応に苦慮しているようである。相撲は神事だ伝統だ神聖だという理由で女人禁制の理由を説明しているようだが、今まで許容していた子供にまで厳格に適用したり、女子だけの参加を遠慮要請した理由をケガしないためとしたり、疑問が残ったままだ。問題に正面から対峙してなくてはぐらかして逃げている。
私は九州男児の端くれで、一応「亭主関白」の風土のもとで育った。
「亭主関白」は、亭主が関白であるが、妻はもっと偉い天皇なのである。家を取り仕切る女の人を嬶(かかぁ)とか上さんとか山の神とか呼称していて決して弱い立場ではなく、かえって亭主を尻に敷いて裏でコントロールしていたのが実態ではないかと思う。しかも妻を卑下したり見下したりしていたわけでなく、とっても大事にしていたのが「亭主関白」である。実権を握っていたのは妻なのである。それなのに、「亭主関白」が悪い意味に使われるのは心外である。たぶん端から見ていて亭主が横暴で妻が可哀そうに見えるのだろう。しかし、そんなことはない。妻をとっても大事にしているのである。
私の周囲では力仕事は男で家事は女という風潮はあった。
これは、それぞれの男女の違いを明確にして区分されたものであり、力仕事は男に任せておけ、女は手を出すな。女は力を必要としない家事をやればいい、と言う考え方なのだろう。反対に女は力仕事させない、女を守ってやるのが男の本分だというのが本質のところであるようだ。だから、過酷な肉体労働や、警察や消防や軍隊などは昔は男の仕事だった。この頃は女性も進出しているようだが、決してこれを拒むものではない。あくまでも男性の女性に対する思いやりなのである。
私が子供の頃、台所をうろうろしていると父親から強烈に怒られた記憶がある。
台所は女の領分であり、男が入るもんじゃないと諭されたのだろう。隣近所で寄り合いがあると主婦連中が会場となる家の台所に集まって作業をしている。男たちは外で魚をさばいたり、肉を切り分けたりしている。昔は今と違って、魚も肉も丸ごと手に入れていた。肉は生きているものを絞めて皮をはいで解体していた。これらは男の仕事なのである。これらが終わると男は奥の部屋で酒盛りが始まる。そうこうしている内に台所から料理が運ばれてきて、宴もたけなわになる。
高野山、比叡山でも女人禁制がある。
これは今でもかたくなに守られているようだが、これも、これから先の修業は女には無理で、女の人はここまで登れば同様のご利益が受けられるという女人禁制だと思う。かえってハードルを低くして、お参りを開放的にして、すべての老若男女を受け入れているのである。それでも女の人がこの境界を越えて男と同等の修業を積みこれを成就できるという覚悟があるなら女人禁制の場所に入山してもいいのではないかと思う。しかし、何も体力的にも筋力・持久力的にも弱い女の人が、しかも男の人と違う生理を持つ女の人がわざわざこの世界に進出する必要があるのか疑問でもある。男女それぞれの特性があるだろう。それを生かすことの方が求められているのだろう。
相撲も同じではないかと思う。
相撲は男のすることで、女はしなくていいからという男社会の思いやりなのである。そのための女人禁制なのではないかと思う。それでも女性がやると言うなら拒まないし、女人禁制もなくしていい。昔からの伝統的な「女相撲」も存在するのである。ここから先は男がやるので、女はここまででいいというのが女人禁制の線引きであって、その線は柔軟であって何も問題ない。かたくなに神事だ伝統だ神聖だと拒む必要もないと思う。ましてや、土俵に上がるくらいは問題ないような気がする。検討するのは結構だが、それこそ本来の伝統的な考え方を間違わないようにしてもらいたいものである。
前々からくすぶってはいたが、土俵上で挨拶中に突然倒れた患者の救命行為に客席から駆け付けた女性看護師に土俵を下りるようにアナウンスしたことに対して、大勢の観客の前でしかも映像も残っているため、メディアで大々的に報道されて全国的な問題へと発展している。相撲協会も対応に苦慮しているようである。相撲は神事だ伝統だ神聖だという理由で女人禁制の理由を説明しているようだが、今まで許容していた子供にまで厳格に適用したり、女子だけの参加を遠慮要請した理由をケガしないためとしたり、疑問が残ったままだ。問題に正面から対峙してなくてはぐらかして逃げている。
私は九州男児の端くれで、一応「亭主関白」の風土のもとで育った。
「亭主関白」は、亭主が関白であるが、妻はもっと偉い天皇なのである。家を取り仕切る女の人を嬶(かかぁ)とか上さんとか山の神とか呼称していて決して弱い立場ではなく、かえって亭主を尻に敷いて裏でコントロールしていたのが実態ではないかと思う。しかも妻を卑下したり見下したりしていたわけでなく、とっても大事にしていたのが「亭主関白」である。実権を握っていたのは妻なのである。それなのに、「亭主関白」が悪い意味に使われるのは心外である。たぶん端から見ていて亭主が横暴で妻が可哀そうに見えるのだろう。しかし、そんなことはない。妻をとっても大事にしているのである。
私の周囲では力仕事は男で家事は女という風潮はあった。
これは、それぞれの男女の違いを明確にして区分されたものであり、力仕事は男に任せておけ、女は手を出すな。女は力を必要としない家事をやればいい、と言う考え方なのだろう。反対に女は力仕事させない、女を守ってやるのが男の本分だというのが本質のところであるようだ。だから、過酷な肉体労働や、警察や消防や軍隊などは昔は男の仕事だった。この頃は女性も進出しているようだが、決してこれを拒むものではない。あくまでも男性の女性に対する思いやりなのである。
私が子供の頃、台所をうろうろしていると父親から強烈に怒られた記憶がある。
台所は女の領分であり、男が入るもんじゃないと諭されたのだろう。隣近所で寄り合いがあると主婦連中が会場となる家の台所に集まって作業をしている。男たちは外で魚をさばいたり、肉を切り分けたりしている。昔は今と違って、魚も肉も丸ごと手に入れていた。肉は生きているものを絞めて皮をはいで解体していた。これらは男の仕事なのである。これらが終わると男は奥の部屋で酒盛りが始まる。そうこうしている内に台所から料理が運ばれてきて、宴もたけなわになる。
高野山、比叡山でも女人禁制がある。
これは今でもかたくなに守られているようだが、これも、これから先の修業は女には無理で、女の人はここまで登れば同様のご利益が受けられるという女人禁制だと思う。かえってハードルを低くして、お参りを開放的にして、すべての老若男女を受け入れているのである。それでも女の人がこの境界を越えて男と同等の修業を積みこれを成就できるという覚悟があるなら女人禁制の場所に入山してもいいのではないかと思う。しかし、何も体力的にも筋力・持久力的にも弱い女の人が、しかも男の人と違う生理を持つ女の人がわざわざこの世界に進出する必要があるのか疑問でもある。男女それぞれの特性があるだろう。それを生かすことの方が求められているのだろう。
相撲も同じではないかと思う。
相撲は男のすることで、女はしなくていいからという男社会の思いやりなのである。そのための女人禁制なのではないかと思う。それでも女性がやると言うなら拒まないし、女人禁制もなくしていい。昔からの伝統的な「女相撲」も存在するのである。ここから先は男がやるので、女はここまででいいというのが女人禁制の線引きであって、その線は柔軟であって何も問題ない。かたくなに神事だ伝統だ神聖だと拒む必要もないと思う。ましてや、土俵に上がるくらいは問題ないような気がする。検討するのは結構だが、それこそ本来の伝統的な考え方を間違わないようにしてもらいたいものである。
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