オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「本音」と「建前」について

2008年02月14日 | Weblog


日本人の特徴として、

 「本音」と「建前」をうまく使い分けるという言い方がよくあるが、私には「どっちつかずでごまかしているコウモリみたいなもの」であり、好ましい姿ではないように思える。日本人の伝統からくる美徳と言う人もいるかも知れないが、国際化時代の今日においては日本人にしか通用せず、どちらかというと重大な欠陥ではないかと感じる。

「本音」と「建前」を使い分けることのどこに欠陥があるのだろうか?

 「本音」は「本心から出たことば」であるが現実は一時的な感情や人情からの「素直な気持ち」でしかない。「建前」は「おおもとの方針」であるが現実は体面や慣習からの「形式」に過ぎない。この両方に欠けているのが「あるべき姿」と「真実」である。本当にどうあるべきかが問われないで、可哀想だ、不憫だ、愛おしい、好感が持てるという感情に流されたその場限りの浪花節の「本音」がまかり通るかと思えば、集団で何となく合意した「建前」を振り回していびつな一部の「本音」の実現を図る。

それでは「建前」が正しいかと言うとそうでもなく、

 建前が間違っていても一旦決めたことはなかなか変えられないし、たとえ間違っていると気づいていても「建前」を通してしまう有様である。ここで「本音」は無言の力に封殺されてしまう。「建前」が正しくても「本音」でもってないがしろにしてしまうことも横行している。このとき「建前」を守るべき人達はこの本音を黙認する。「建前」を断固通すか黙殺するかは「お上の声」一つで決まる。何とも都合のいい「本音」と「建前」の使い分けであるが、これは「デモクラシー」とはほど遠い。下手をすると専制政治である。

「あるべき姿」や「真実」は、絵空事や絵に描いた餅ではない。

 現実に存在するものである。少なくとも、我々は過去・現在・未来の時の流れの中で一貫した真実を追求しているはずである。それがその場限りの全体を見失った節操のない一部の人のための決断であってはならない。周囲の状況が如何に変わろうとも真実はひとつである。ただ考え方ややり方、アプローチが変わっただけである。日本人の「本音」と「建前」には、この「あるべき姿」と「真実」を追求する心が抜けている。「本音」と「建前」は日本人にとって個人と集団をうまく調整する機能として有効に働くが、あくまで調整機能であって、使い方を誤ると悪循環にはまってしまう。

薬害エイズの反省から、

 国内血液による血液製剤の製造が叫ばれたが、最終的にふたを開けると相変わらず輸入血液がまかり通ってしまい、形だけの「建前」を武器に「本音」の金儲けが優先し薬剤エイズ問題が発生してしまった。政治が不透明だから情報公開せよと叫ばれたが、最終的にふたを開けると情報公開は名ばかりでその許諾権は一方的に所轄の担当大臣にあり、これでは何のための情報公開かわからない。少なくとも情報公開を請求する側と請求される側は対等の立場に立ち、第3者的な外部機関で審査するくらいの仕組みは作らないと有名無実である。すべてを公開しろとは言わないが、不正や問題を隠すための非公開であっては意味がない。そもそも不正や問題を明らかにするための情報公開ではなかったか。

「あるべき姿」や「真実」を認めていても、

 「そんなことは不可能」「効率的でない」「周囲の賛同が得られない」「これまでの経緯がある」「理想と現実は違う」などとなし崩し的に「あるべき姿」や「真実」がゆがめられてゆくが、これはおかしい。「あるべき姿」や「真実」を掲げて一歩一歩前向きに前進すべきである。今日明日にすべてを完全に解決せよとは言っていない。大きな問題であればあるほど、時間をかけて地道にひとつずつ解決に向け努力しなければならない。頭から「できない」としてその場限りのとりあえずの緊急避難的な決断を下すことは問題の先送りであり何の解決にもなっていない。問題は先送りすればするほど肥大化し取り返しのつかないものになる。時間は取り戻すことはできない。

誰でもいやなことは目をつむって見ない振りをして見過ごしたい。

 しかし、「いやなこと」が目の前で起こっているのは事実である。何とかせねばならない。見過ごして問題が解決すればいいが、見過ごすことにより2倍4倍8倍と問題は肥大化してゆく。嘘だと思うなら自分の子供のしつけを考えてみたらいい。一度悪いことを許したらあれもこれもと悪い芽が吹き出す。しかも規模が拡大してゆく。どこかで悪い芽を摘まなければならない。ほったらかすと取り返しのつかないことになる。解決法は「あるべき姿」「真実」を見せてお互いに徹底的に話し合うことである。知らないからまたは知ってはいても自分のこととして実感していないから悪いことをするのである。その悪い自分の様(ザマ)を客観的に見せつけてやればいい。

通常の軽微な悪事は最初は単なる偶然と軽率と錯誤からである。

 その時点では本人は「悪」に気づいていない。それをそのまま見過ごすと「これでいいんだ」と思ってしまう。その種は芽を出し葉を出し根を張って肥大化する。「悪」から目を反らさず、本人に徹底して知らしめなければならない。あまりに真剣でしつこいと母親は途中で「可哀想だからもういいよ許してやりましょう」と言うが、父親としてはそういうわけにはゆかない。できれば日を替えて何回も反復して知らしめたいくらいである。

社会生活にもこの父親の威厳と頑固さが必要である。

 みんなで決めたことは誰が何と言おうと守らなければならない。人を殺してはならない、傷つけてもいけない、売春してはならない、人を騙してはならない、弱者をいじめてはならない、他人に迷惑をかけてはならない(云々)。こういうことには理論もへったくれもない(理論があったほうがいいが、理論には屁理屈で対抗される)悪いものは悪いのである。大抵のものは相手の立場に立って冷静に考えれば理解できるはずである。悪いものを悪いと断言し敢然と是正させる勇気を持ちたい。

善悪の判断は社会の伝統である。

 ご先祖様が、祖父母が、父母が、兄弟姉妹が、親類縁者が、隣近所が、友人が、先輩が、態度で示し考え方を示し行うところに共通の認識が生まれる。何故そうするか?ご先祖様がし、祖父母がし、父母がし、兄弟姉妹がし、親類縁者がし、隣近所がし、友人がし、先輩がするからである。そして自分もそれがいいと思うからである。理論もへったくれもない。それで社会が成り立っているのである。

政治にもこの父親の威厳と頑固さが必要である。

 この父親の威厳にあたるものは取りも直さず市民の監視の目であり問題点に対する意見である。監視する側も勉強せねばならない。降ってわいたその場の事実に一喜一憂しているだけでは何も解決しない。全体の流れと構想から「あるべき姿」と「真実」を見いだしてそれを追求すべく意見しなければならない。たとえ意見がすぐには聞き入れられなくとも繰り返し根気よく言い続けなければならない。一人で悶々と悩んでいても何も解決しない。みんなで徹底的に問題点を提示し話し合うことである。そのような機会と場を設けなければならない。そして集団の意見として集約し力を結集しなければならない。一般市民もこれらの機会と場を求めて積極的に意見を発表する勇気を持つべきである。あきらめてはいけない。


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