オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

恫喝

2011年07月10日 | Weblog
日本人はいい人達ばかりだ。

 だから、恫喝に弱い。「恫」とはおどすこと、大声で相手をぎょっとさせることである。「喝」とはしかる、どなる、はっと大声を出して人をおしとどめることである。本来日本人は和をもって尊しとし、諍いを嫌うのである。だから一部の人から恫喝されると、争いを避けるため本能的に従ってしまう。一時的には別に悪い事ではないが、無節操に全面的に従ってしまうのはどう考えてもおかしいと思う。通常、恫喝する側は、無理難題を押し付ける。例えば一つの事実をもって全てを語ろうとするし、ひとつの不都合を楯にして全部を否定しようとする。一応筋は通っているが、総合的かつ客観的に考えるとおかしな事ばかりである。この恫喝で始まったことは通常理不尽な事ばかりであり、そんな理不尽な事がまかり通ってしまっているのが残念ながら日本の風土でもある。

恫喝されたら、議論はそこで中止しなければならない。

 恫喝とは、理性からはずれた感情的な激昂に過ぎない。感情的になったら議論はできない。よく、大声を出してがなり立てて自己主張をしている人達を見るが、この人達はすでに理性を捨てている。私はこういう人達の意見は最初から聞かない。「ああ、何か騒いでるな」くらいにしか思わないようにしている。かといって、相手は怒っているので、無視するわけにもいかないので、その場を治める努力はするが、この時、決して妥協してはいけないのである。妥協したような弱音の結論的な意思表明をしてはいけないのである。これこそ、相手の思う壺であり、相手はそれを狙っているのである。相手は、その言質を楯に次の過大な要求をしてくる。そう、ヤクザと根本的には同じなのである。日本人とヤクザは昔からの伝統文化のようなものだが、これが日本人の本質のような気がしてならない。

議論の場で恫喝するのもルール違反である。

 議論には議論で応戦しなければならない。議論は通常、理性的で客観的で紳士的で冷静な態度で行うものであり、反対に感情的になったほうが負けなのである。論議に負けたために、または論議で対抗できなくなったために感情的になってしまったのである。議論の内容が正当で説得力があり理路整然としていれば、言葉を荒げなくても誰でも納得させる事ができる。こんなことを考えながら、国会中継を見ていると、なんと恥ずかしい事ばかりかと思ってしまうし、選挙演説でがなり立てている人達を見るにつけ、なんと不毛なんだろうと思ってしまう。自らが自分の正当な意見を主張する事をやめて、感情的な怒りの爆発だけに終始している。これが本当の政治なんだろうかと思ってしまう。

マスコミも恫喝に弱いようである。

 ある集団に不利な報道をすると、マスコミに一方的な殴りこみの苦情を提示する集団がいる。よってマスコミは、その方面には気を遣って真実を報道しない、もしくは報道そのものを取りやめる、もっとひどくなると、その方面の片棒を担ぐような報道をする。本来はこんなことはあってはならないことだが、現実にはあちこちで散見される。何でこんなことになったんだろう?と疑問に思うと、その原因は「恫喝」であり、「恫喝」そのものは雲散霧消して、あとには得体の知れない事実だけが残る事になる。日本人特有の「雰囲気」に流される国民性も影響していると思われる。恫喝で最初の雰囲気さえ作ってしまえば、あとはその雰囲気に流されて、みんなが従ってしまう。第2次世界大戦の日本国内での熱狂的な盛り上がりの原因はこんなところにもあったのではないかと思う。誰も冷静に水をさす意見を述べる者がいなかったのである。

復興担当大臣の交代劇が面白い。

 「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか? 皆さん。絶対書いたらその社は終わりだから」という言葉は、恫喝以外の何者でもない。そして、マスコミはこれに応じて最初は報道しなかった。ところが、東北放送はこの恫喝に反応しなかったために、ローカルで放送してしまい、この内容がYouTubeに取り上げられ全国に知れ渡ってしまい、結局報道各社も報道せざるを得なくなり、反響が大きくなり過ぎて、辞任せざるを得ない状況になったのが真相のようである。内容が辞任するほどの事なのかは別として、恫喝する側と恫喝される側の状況がつぶさに観察できた事例だと思う。まぁ、「オフレコ」と言ったら書かないのがマスコミのルールかもしれないが、「絶対書いたらその社は終わりだから」と恫喝できるほどの影響力を行使する実績をこれまで積んでいたのだろうか?それとも単なる冗談なのだろうか・・・。

恫喝には毅然と対処しなければならない。

 我々一般国民もそうであるが、政治に携わる者、報道に従事する者、は特にそうである。恫喝に負けてしまっては、正当な論理が通らなくなってしまう。恫喝に負けず正当な論理を主張し続けなければならない。真実を曲げてしまってはいけないのである。目の前の打算だけで行動してはいけないのである。一部の人の歪曲した理論が通ってしまってはいけないのである。声の大きい人や、積極的に苦情を述べる人や、不平や文句を言う人だけが、得をする世の中になってはいけないのである。一をもって百を主張するような短絡した思考には同調してはいけないのである。我々一般国民の政治を預かる者、我々一般国民の世論を牽引する者として、自覚ある行動をしてもらいたいとつくづく思うこの頃である。

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