日本には昔からの伝統的な「作法」がある。
本来は仏事的な行事を行うための方法・方式であるが、礼を尽くすための立ち居振る舞いであり、これらが集大成されて「しきたり」や「習慣」となり、ひいては伝統的に物事を正しくやる方法を「作法」というようになったと言われている。社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理や規範であり、最終的には人として従うべき行動様式全般を左右するものでもある。「作法」が最も重視されるのは、初対面の時である。初対面では、その人の性格や氏素性、人格、生活様式、考え方、価値観など何も解らない状態である。この時の一挙手一投足は相手に対してその全てを印象付ける大切なものであり、お互いに最善の礼を尽くすことに努力する。
たとえば、食事をする時、
まずは食卓に着かなければならないが、座席に座るときどちら側から座るであろうか。基本的には、着席も離席も向かって左側から行うのが「作法」であり、これは国際的な「マナー」でもある。個人の自由といえばどちらでも構わないが、自由にやられたんでは、鉢合わせになったり、ぶつかったりで、左右の隣の人が迷惑する。これを円滑にスマートにこなすためには、「左側から着席」「左側から離席」と「作法」を覚えている事が重要である。これをくだらないと思ってしまえばそれまでだが、作法を無視して行動すれば、その人の性格や氏素性、人格、生活様式、考え方、価値観などが暴露してしまう。少なくとも周囲の人のことを思い遣る心のない人と印象付けられ、そんなことも教えられていなかった生い立ちと教育環境が解ってしまう。自分の先祖や家族の恥までも晒してしまう(かといって咎める人はいないが・・・)。
箸を手に取る時どのようにするか、
右手で箸の中央を持ち上げ、左手を添えて支え、右手を回して持ち替えて、正しい持ち方の位置に調整して使い始める。箸を置く時はこの逆順の動作で、左手を添えるところが本来の「作法」である。これを無視して、自分なりの自由なやり方をするのも勝手だが、前述と同じように生い立ちと生活環境が解ってしまう。別に難しいことではない。慣れると最も合理的で上品な箸の取り方であることがわかる。要は、こんな作法をどこかで教わっていたのかいなかったかの差である。是非ほんの些細な事なので、子供のうちから教えてもらいたいものである。「作法」と言っても、そんなに堅苦しい事ではない。どうせやるなら「作法」に則ってやったほうが無駄がないし合理的で上品である。「作法」は先人があらゆる要素を考慮して英知を絞って作り上げた伝統の知恵なのである。
近頃の人達が「作法」を無視する事によって個性を主張する手段にすることがある。
しかし、これは、「作法」を無視した事により周囲の人達から異端扱いされただけで、到底個性と言えるしろものではない。「作法」を守っても個性は十分主張できるし、「作法」を守った上での個性のほうがより貴重で輝いていると思う。社会的な規模が大きくなればなるほど、初対面の人が多ければ多いほど、「作法」を守るべきであり、「作法」の意義と有効性を大いに活用すべきである。自分流のやり方(作法)の正当性と価値を一人ひとり説得して納得させる努力よりも、とりあえずは「作法」を守ってそんな努力を別の方面に使ったほうが得策である。「作法」とは、些細な決め事の集合であって、「作法」を守ったからその目的が達成されないと言う性質のものではさらさらない。些細な事にこだわらないで、もっと別の本来の目的に努力を集中してもらいたい。それでも「作法」を無視すると言うのであれば、その人は社会生活に不適合な人格の持ち主であるといわざるを得ない。
「作法」は押し付けるものではない。
合理的で上品な周囲を思い遣り社会生活を円滑にする立ち居振る舞いで、万人が価値を認めるものであることを教えなければならないし、「作法」の活用法を教えなければならない。「作法」だからと力と強制で個人の価値観を感情的に押し付ければ反発するばかりである。そして、万人に共通の作法を習得した上で自分なりの作法があってもいい。それは自分なりの他人を思い遣る心の表れであり、自分なりの合理的で上品な立ち居振る舞いであろう。そこに自分なりの作法上の個性が現れると思う。しかし、そのほとんどは昔からの伝統的な「作法」を守る事によって円滑な社会生活が達成できると思う。最初(子供の頃)の段階で是非、昔からの伝統的な作法に則った立ち居振る舞いを教えてもらいたいと思う。それが本人のためであり、教える事を怠ったら本人が苦労するばかりであるし、何も知らないで周囲の人の誤解を招く社会生活不適合の人格を形成してしまう。
「作法」は学習するものでもある。
教えられなかった部分は自分で学習し身につける努力をしなければならない。教えられなかったからやらなくてもいいという性質のものでもない。そしてその努力は自分の人格形成に大いなる成果をもたらす。「作法」を学習しようとする心がけそのものが、他人を思い遣り社会生活を円滑にしようとする決意に他ならないし、その結果として豊かで円滑な社会生活が約束される。自分の生い立ちにおいて不足していた礼儀作法は自分で補ってやらなければならない。私自身もガサツな人生を送っているし、生い立ちも高貴ではない。しかし、父母は最大限の努力を持って私を躾けてくれたし、その結果で今の自分があると思っている。少なくとも社会生活不適合の集団には入らないで済んでいる。何にでも「完璧」はないし、私も多くの失敗と誤解を招きながら生きてきたが、最終的な他人を思い遣る心と円滑な社会生活を送るための知恵は大事にしてこれからの余生を送りたいものである。
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