「葛藤」とは心の中の対立した欲求で、どうするかを思い悩むことである。
人間は常に葛藤しているし、この葛藤が人間を進化させてきた。人間社会に起こる物事は常に葛藤の中にある。一方的な善や一方的な悪、完全な善や完全な悪は存在しえない。これを決めつけることは間違っているし、思考の発展を阻害し決めつけた時点で思考停止の状態に陥ってしまう。しかしながら、世の中の風潮はどうしてもこれを決めつけたがる。その方が解りやすくて単純でいつまでも思い悩む必要がないからである。
「葛藤」に悩み苦しんだご褒美が「笑い」である。
結果が間違っていても正しくても「笑い」が生じる。正しくても間違っていても関係ないのである。「葛藤」した行為そのものに対して「笑い」で締めくくる。特に厄介なのが、自分の知識や信念に間違いがあった場合で、この誤りの修正は多大な労力を必要とし、開き直ったり、恥じたり、泣いたり、逃避したり、自殺したりとなる。これらをうまく切り抜ける切り札が「笑い」であり、人間の進化の過程で身に着けたものだろう。
利己的なものが悪で利他的なものが善でもない。
集団内の個人的な価値は利己的な者に有利に働き、集団間での社会的な価値は利他的な者に有利に働く。利己的に行動するか利他的に行動するかの狭間で個人は葛藤することになる。常に宙ぶらりんであるが、この正反対の行動によって考え方は変化し続けるのが実体である。そうであれば、利己的な者や利他的な者を善悪判断で一方的に攻め立てるのはおかしいと言うのが冷静な判断である。ところが集団心理は往々にして利己的な個人を悪として攻めまくるのが通常である。
個々人が常に葛藤しているのが通常の状態である。
そして、個々人が葛藤した結果を自分で出せばいいのである。その結果をもって多数派と少数派に分かれて、その集団間で折り合いをつければいいのである。葛藤の苦悩を避けて安易に多数派に流されてしまうから集団心理に発展してしまうのである。個々人も葛藤していたのであり、葛藤の苦悩や難事を同じように経験しているのである。たとえ多数派と結論が同じであろうと少数派の結論にも賛同できるはずである。その違いはわずかである。
違いがわずかであれば折り合いは簡単につくはずである。
是か非か、賛成か反対か、善か悪か、やるかやらないか、等と対立概念を持ち出して論争するから折り合いはつかなくなる。実際に行動しようとしていることは対立概念ではないはずである。その行動そのものから生じる葛藤を一つ一つなくしてゆくことが重要なんだろう。その過程でその葛藤が間違っていても正しくてもお互いが笑ってすまされるはずである。笑って反省し、笑って許せばいいのである。これをしないから深刻な事態に陥って最終的には紛争状態になってしまう。
戦争状態を回避できるのも「笑い」であろう。
「笑い」さえあれば、徹底的に深刻な状態も回避できるし、こんな時こそ「笑い」が必要なのである。笑って済ませてしまう人を軽蔑するが、うまくいって笑い、間違って訂正して笑い、恥ずかしくて笑い、泣きたくて笑い、怒りたくて笑い、逃げたくて笑い、逃げ場がなくて笑い、etc。それでいいではないか、これが人間の本質である。葛藤から永遠に逃れられないのなら、その葛藤の苦悩と難事を笑いながらこなしてゆく強かさが必要なのではないだろうか
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