オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

誠実って何だろう?

2023年09月19日 | Weblog

誠実の「誠」は「まこと」である。

 こんな名前の人もいるだろうが、「言ったことを成す」という漢字になっている。まずは、自分の言ったことを正当に実行する人のことであろうか。言うこととやることが違うような人は誠実とは言えないようである。そのような人は周囲から不審がられ信用を得ることはできない。信用の「信」も一度言ったことを押し通す人間の行為のことで、この人を用いることが「信用」である。

誠実の「実」は事実のことである。

 人と人の関係で事実を認めるのは最終的には自分自身ではない。相手もしくは周囲の人が認めることが事実である。その決定権は自分にはない。いくら自分の意見を主張してもそれが最終的な事実とはならない。客観的に周囲が認めないと事実とは言えない。当然相手はその内容を取捨選択し、真実を追求しようとしている。その過程で、発言内容に嘘を汲み取ったらその人を信用できなくなる。そういう関係の中で「誠実」を貫かなければならない。小さな嘘でも大きな嘘でもついてはならないのである。

「嘘」は通常自分に都合の良いように解釈した言い訳でもある。

 言い訳をしなければならないこと自体がすでに問題や矛盾を含んでいる。たぶん、その原因は何気ない小さな嘘から出発している。小さな嘘や矛盾がなければ言い訳は必要ないはずである。そのように考えると、最初から最後まで誠実であることは凡人の我々にとってはとても難しいことのように思える。どのようにしたら誠実を貫き通すことができるんだろうか。

昨日我が家猫の爪を切った。

 ニッパーのような爪切りを使ったのだが、愛猫が嫌がって脚を引っ込めてしまっため、肉球を切ってしまつた。私としては言い訳のように脚を引っ込めたのが悪いと思っているが、事実は解らない。もしかしたら私のミスかも知れない。しかし猫は何も言わない。

誠実の根本は共感ではないだろうか?

 相手の言うことをよく理解しその内容に共感することであろう。良いことも悪いことも価値観や感性が違ってもまずは相手を相手の立場に立って理解し共感するところから始まる。貧富や貴賤や階級や人種や年齢や性別や職業や宗教等に関係なくである。この出発点が一番難しいようである。ここを間違えると誠実はどこかへ行ってしまう。たいがい私も含め人間はここの努力が足らないようである。

共感だけで何も言及しないでも誠実は成立する。

 相手は自分を理解してくれただけでも感謝しその理解してくれた人を信用する。何も言わないことは、何も実行しないでも咎められることはない。そして少なくとも最低限現状維持である。何か意見をした時にはその責任はその人にあり、その人はその責任を果たさなければならない。そう考えると、不用意に無責任な言動はできなくなるし、不用意で無責任な言動をしない人が誠実な人である。

そんなことを考えながら自分の生活を振り返ってみると反省ばかりである。

 どちらかと言うと、他人の主張を遮って自分の主張を通そうとする傾向にある。そして、これを積極的な態度だと思っている。客観的に見ると、他人の意見をよく聞いていないのであり、理解しようとしているかも疑わしい。途中で自分の考えを押し付ける主張になってしまう。そして、その主張に最後まで責任が取れるのかも疑わしい。自分に都合のいい論理を展開しているだけのようである。

これを相手側から見ると、

 どう考えても誠実な人だとは思ってもらえないし、信用できる人だとも思ってもらえない。下手をすると、最終的には頭から無視されるし、その後は何を言っても信用されなくなる。そして、当の本人は信用してもらうべく、さらに自分の主張を展開し、結局は小さな嘘を繰り返すことになり、最後は大きな嘘をつかなければならなくなる。

この記事は自分の反省の記述である。

 まだ、大きな嘘をつくまでは発展していないが、あちこちに小さな嘘が散在しているのは隠せない。早い時期にこの小さな嘘をなくす努力をすべきであり、大言豪語することを戒めなければならない。相手の注目を集めるために誇張したり話を作ったりはよくやることである。ネットワーク上のSNSやYoutubeでの広告料稼ぎの記事を投稿している人達はさらに猛省すべきだとも思う。


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