キンモクセイ(金木犀)の花が真っ盛りで、
その馥郁たる香りをそこら中に漂わせている。このキンモクセイの「香り」を、「臭い」と表現し、「トイレの臭い」という者が大勢いる。芳香剤メーカーが人工のキンモクセイの「臭い」をトイレ用に大量に販売したために、「キンモクセイの香り」が「トイレの臭い」に変わってしまった。キンモクセイにしてみればいい迷惑である。
それにしても、
これほど見事に人の感覚を狂わせることが可能なのだと改めて恐ろしくなる。世の中には数多くの、この「キンモクセイの香り」を「トイレの臭い」と感じるような間違った認識をさせる事象が発生しているのであろう。キンモクセイの例は、芳香剤メーカーがたまたまキンモクセイの人工香料をトイレ用に製造して大量に販売した結果だと思うが、これを意識的に悪用した場合は、キンモクセイに対する名誉毀損と権利侵害である。
しかし、一般大衆はキンモクセイの受ける被害が目に見えず、
大勢が「キンモクセイの香り」=「トイレの臭い」という価値判断でしか見なくなる。極端な場合はキンモクセイには何も非がないのに、邪魔者、嫌われ者、悪者にされかねない。唯一の救いは、本物のキンモクセイは偽物の芳香剤よりも数段優れていることだ。見る人が見れば、キンモクセイの価値は普遍で、やはり庭木として珍重され、あちこちで大切に育てられている。
私は、キンモクセイの香りが大好きである。
芳香剤はキンモクセイに似た刺激臭しかしないが、本物は、柔らかくて、ほのかで上品で、奥行きがあって、包み込むような優しさがあり、キンモクセイの時季はあちこちを散策しながら、その「香り」を楽しんでいる。マスコミの報道にもキンモクセイと似た事象が発生していないだろうか。本質と離れた一部を誇張して繰り返し報道されるとその一部から受ける印象が定着してしまい。本質を忘れて、直感、感覚から抽象的な共通認識、既成事実に発展し、曖昧な感情論、情緒論で押し流されていることはないだろうか。マスコミのこのような報道には不必要な枝葉末節の情報にはフィルターをかけて本質を見失わないように聞く必要がある。
マスコミ報道と現実の事象とのギャップを実験的に体験するには、
地元で発生した事件や、自分が良く知っている分野で発生した事件が報道された時に、自分が認識している事実と報道の内容を比較してみるとよくわかる。報道の内容はウソではないが、誰か(全く関係ない第3者)の解説を聞いているみたいで、実態が正確に伝わっているとは思えない。場合によっては全然関係ないよその世界の事件ではないかと思えるほどである。
情報には自分で本質をつかみ判断の基準とするデータと、
人を説得し、理解してもらうためのデータに分かれる。前者は考え方、コンセプトであり、後者は裏付け資料(主にデータベース)である。データベースは現実に起こっている事実そのもの及び過去の実績であり、これを分析・整理・評価することにより、素人でも、そこそこの説明資料を作ることができる。しかし、それ以上の成果を上げるためにはプロの人間の経験と勘・洞察力が必要になる。また、分析・評価に当たってはしっかりしたコンセプトが必要で、そのコンセプトを明確にすることも受け手に誤解を生じさせないために必要なことである。
いまのマスコミは、
前者のコンセプトを不明確にしたまま、後者の説得し理解してもらうための裏付け資料をこれでもかこれでもかと大量に垂れ流している感じがする。少なくとも我々受け手がしっかりしたコンセプトを持たないと、間違った方向に進んで行くのではないかと不安になる。マスコミ(政治も含む)は大衆の人気取りに終始することなく、必要な場合は一部の大衆の機嫌を損ねてでも、また、一部の大衆を敵に回してでも自己のコンセプトを主張する心構えが必要である。そのはっきりしたコンセプトに基づいた主張があってはじめて受け手が納得できる事実が見えてくる。
大衆が右なら右を向き、左なら左を向き、
大衆がその時喜んで受け入れる情報を選択して流すのでは報道の意味がない。右であれば右、左であれば左という態度を明確に堅持してもらいたい。右から左にまたは左から右に変わるなら少なくとも変えた理由を明らかにし、一貫した普遍のコンセプトを保持してもらいたい。
世の中は混沌とした不透明でボーダーレスの社会であり、
常に流動しているという認識がある。そのなかで、普遍のコンセプトを持つことは難しいという発言も聞かれる。しかし、少なくとも、革新、保守、中道の3パターンには分類できるはずである。いまのマスコミや政治家はこの3パターンさえはっきりしない。ひとつのパターンで行く自信がないのであれば、少なくとも、「私はこの件に関しては革新(保守・中道)です」と、態度を明らかにして発言なり、行動をしてもらいたい。自分のコンセプトはさておいて、どうやったら大衆に最も受け入れられ、部内の意見をうまくまとめることができるかという人気取りと根回し・調整に終始し、ツギハギだらけの発言と行動を繰り返していたのでは、ろくな結果が得られるわけがない。混沌とした不透明でボーダレスの社会だからこそ、誤解をなくすためのしっかりしたコンセプトが必要と思われる。
この年齢になると、過去の様々な「大」事件がよみがえってくるが、
あれほど熱狂し、大騒ぎし、一大事件として取り上げられた数々の事件が、終わってしまったいま冷静に考えると、「何だったんだろう」という素朴な疑問がわき、その疑問に答え得る説明がいまだに見つからない。まるでお祭りの馬鹿騒ぎの後のような空しさである。あの馬鹿騒ぎの中で冷静にその馬鹿さ加減を指摘できる報道機関がなかったのか、大局的な立場から矛盾と誤解を指摘できる知識人はいなかったのか、と反省することしきりであるが、凡人の私にはいかんともしがたい。せめて拙文をもって地道にこの気持ちを訴えてゆくことしかできない。
裸の王様の話がある。
「王様は裸だ」と勇気を持って言ったのは子供である。この勇気ある言動は「子供」だから言えたのであって、分別のある「大人」ではなかなか言えるものではないといううがった言い訳もある。しかし、王様が裸なのは「事実」であり、この事実に目をつむることは、たとえ大人でも許されない。それは「分別」ではなく、醜い打算と責任逃れである。大人は勇気を持って事実に目を向け、自分の地位・役割と責任・権限を明確にし、自分の意見はしっかりと主張し、必要な場合は反論し、自己の権利は自分で守り、必要な場合は権利獲得と権限行使のため戦うことも辞さずの気概を持ち、世のため人のため、また自分のため、家族のために身近なことから具体的な行動を起こす気構えが必要である。
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