オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

専門家

2012年02月12日 | Weblog

専門家って何だろう。

 ある分野や事柄に対して専門に研究・担当して、これに精通している人だろう。基本的に専門家の意見は現段階で一番正しい方向性を提示したものであろう。その専門家の意見を批判するのは、専門外の人達である。専門外の立場から常識的に判断して「おかしい」という批判になる。専門家の常識が正しいのか専門外の常識が正しいのか、どっちを信頼すべきだろうと困惑してしまうが、専門家は全体の一部であって、ほとんどの人達が専門外であることから、支持されるのは専門外の常識に基づいた意見である。往々にして専門家の意見は難解で理解しがたく、一般人の常識に反し同調できない内容が多く、常に大多数からの批判の嵐に晒される。反対に一般人の常識でも理解できる専門家の意見とは情報量の乏しい陳腐化した内容であり、敢えて意見を提示する必要もないと思われる。

専門家もどきの似非専門家がいる。

 また、専門家の意見と称して似非専門家の意見を利用して民意を誘導する得体の知れない集団がいる。専門家の意見であっても、この一部を流用したり、誇張したり、前提条件を省略したり、曲解して間違った方向に誘導してしまう人達もいる。似非専門家は別として、このような得体の知れない集団は、専門家の意見の信頼性を損ない、本来の正しい意見を埋没させてしまう。この忌むべき現象の根本の原因は、専門家そのものではなく、専門外の間違った批判であり、この批判を増長しさせ、恣意的に利用する集団である。たとえば、マスコミで一般市民の意見を主体に構成している報道を見ると、まさに民意を誘導しているようにしか見えない。まず、しっかりと報道すべきは、専門家の意見を正しく伝えることであり、そのための正当性の根拠である。上っ面だけの結論だけの報道であってはならない。

通常専門家の意見は断定的ではない。

 その時点での方向性を示すもので、思考範囲を限定して、ある前提条件の下に、ある一面から研究した結果であろう。ゆえに、安易に断定的に結論を提示する専門家は眉唾で聞いたほうが良い。科学的な考え方には、常に疑問が付きまとうし、疑問が完璧にない科学なんて存在しない。科学的な結論はある仮説を証明したに過ぎないし、その仮説がそのまま自然界の現象に適用されることはない。無限大の仮説を証明しながら真実にアプローチしてゆくのが科学であり、疑問に基づいた証明できない仮説がなくなることは未来永劫ないだろう。だからといって、その意見が間違っている訳ではなく、確率的には正しい方向を提示しているのだろう。よって、正しくない確率の側に立って批判する事は簡単であり、そのような批判も大切だが、これでこの意見を全否定することはできない。そのような批判も承知の上で提示された現時点の専門家の結論であるはずである。

専門家の意見はある特定の恣意的な集団に利用されている。

 この集団の利益に都合のいい専門家の意見は、全力を尽くして支持し、その普及徹底を図る。反対に都合の悪い意見は、徹底的に専門外の意見を主張し発展させて、意見そのものの信用を失墜させ抹殺してしまう。この手法を利用すれば民意は意のままである。あちこちでこんな場面をたくさん見るにつけ、我々一般庶民がもっと冷静に考えないと、とんでもない方向へ向かってしまうと危惧する。そうならないためには、我々一般庶民が困難ではあっても専門家の意見を正確に理解する努力をすることである。そして、その意見を周辺の解説や評論に惑わされることなく、まずは自分の判断基準で評価することである。簡単な前提条件と理由と思考過程と具体的な方向性は明確にすべきだろう。解説や評論の批判や性急的な結論を鵜呑みにしてはいけないと思う。

例えば、原子力発電について、

 世間の風潮は、科学技術に対する不信感一色だが、今回の原発事故の大本の原因は巨大地震であり巨大津波である。これに対する対策が不十分であった事は科学技術とは別のものである。災害対策が十分であったなら、科学技術的には何も問題ないレベルに原理そのものは完成している。核廃棄物の処理については、現状においては自然の崩壊を待つか、再利用するしか方法がないことも科学技術的には明確であるが、それを承知で核廃棄物の処理が未解決なまま原子力発電に踏み切ったのは、科学技術からの結論ではない。全ては利用する側、運用する側に責任がある。反対に言うと、利用する側、運用する側の改善すべきところはたくさんあるし、改善の可能性も十分にある。それを無視して全てを抹殺してしまうのは冷静な判断ではないと思う。安心・安全な原子力発電を目指す道を閉ざしてはならない。

巨大地震や巨大津波に対する対策が不十分だと大騒ぎしているが、

 テロリストの攻撃に対してはどうなんだろう。航空機が直撃した場合はどうなんだろう。隕石が落下したらどうなるんだろう。もし国内が戦争状態になったらどうやって防護するんだろう。他にも検討しなければならない危険性はたくさんあるだろう。それでも安心・安全な原子力エネルギーの利用が目指す目標である。その開発・研究を事故に懲りて中断する事は得策ではないし、この失敗にこそ貴重な教訓がたくさんあるし、この事故による犠牲を無駄にしてはいけないと思う。今現在、日本の原子力に関する研究は低調であると聞いている。人智を結集して安全・安心な原子力エネルギーの利用を飽くことなく追及するのが未来の人達への大いなる貢献だと思う。当然ながら、原子力以外の再生可能エネルギーや省エネルギーシステムの開発・研究も奨励すべきである。


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