オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

解けない問題

2012年02月19日 | Weblog

高校や大学の入学試験で解けない問題を出題したら大問題である。

 この頃の教育現場ではほとんどが入学試験に合格する事を目標にしている。学生の毎日の勉学も入試問題を解く能力を向上することが主体となっている。しかも、制限時間内に効率的に解く手法を日々繰り返し研鑽している。考えてみると、生まれてこの方ずっとこのような環境で教育を受けていた記憶がある。私は少々へそ曲がりなところがあって、入学試験の傾向と対策的な解き方を解説した参考書があまり好きでなかった。何も参考にせず徹底して自分で解いてみることを試みていた。時には誰も考えないようなやり方で問題を解くこともあって、これを見つけること、そしてみんなの前で披露することが快感でもあった。こんな人間だから、試験では効率が悪く、良好な点数を獲得できる訳もなく、一流の有名大学に合格することもなかったが、そんな人間でもそこそこの経歴でそこそこの成果をもってそこそこに世の中の役に立っている。

小学校でさえ、期待された画一的な行為を要求する教育が徹底している。

 人間には、精神的な知能と身体的な能力の両面がある。学校教育は精神的な知能ばかりを求められる。知識欲の強いグループが優等生であり、身体的な能力に長けたグループは優等生にはなり得ない。たまには文武両道をわきまえた素晴らしい人材も存在するが、通常は頭でっかちの知識ばかりが先行するグループが優等生グループを形成する。だいたいが、小学校低学年で机にかじりついて真面目に勉学に励むような子供にろくな人間がいないと思うのが私の私見であり偏見でもある。この時期は屋外でまたは自然の中で縦横無尽に走り回って仲間と知恵を絞って何かの目的に向かって一生懸命試行錯誤するような環境の方が将来素晴らしい人材を育てるためにも重要である気がする。これが動物的な初期の基本的な学習行動であり、この基本がない限り自然界でまたは人間社会で生きるための根本の精神が欠落してしまう。

確かに、社会生活に順応するための、集団行動の教育も重要ではあるが、

 初期の段階から大人の目線で強制的に順応させるのは考えものであるし、順応できない子供を落ちこぼれ扱いするのも考えものである。反対に、ずば抜けて知識欲のある子供もいて、すでに高学年の知識も会得している子供もいる。今の教育はこれらの子供に足踏みさせ、みんなと同じレベルに留まらせて、集団の管理教育を実施している。このような場合は飛び級を導入して、さらに上級を目指す機会を助長してやらなければならないと思う。高校、大学教育も同じである。早い時期に解答のある基礎的な初級教育を終了して、より高度の解答のない課題に挑戦することを奨励すべきである。それなのに、全ての教育が解答のある与えられた課題を無難にこなす教育だけに終ってしまっているようである。このような教育体制では、現実社会の解答のない課題に挑戦できる人は誰もいなくなる。

本来であれば弱肉強食の自然界で、または人間社会で活躍するのはエリートではない。

 管理された平穏な状態においてエリートは活躍できる。知識だけでは自然界で食料を獲得できないし、下克上の世の中で生き残ることはできない。身体能力、生存能力に長けた人達に支えられてエリートは存在できる。そんな二面性を持って人間は生まれてきていると思う。それなのに、多様性を無視して画一的に教育するのは欠陥人間を作り出すばかりである。何としてもこの小・中・高一貫した試験選抜制度の弊害をなくさなければならないと思っている。自然界の中でも生き残れる、下克上の世界でも戦える、そして、全世界の中にあって対等に勝負できる逞しい人材を作り上げることも必要であり、それは単なる入試のための知識では実現できない。何が不足しているのかを真剣に考える必要があると思うし、直ちに改善すべきことであると思う。

エリ-トと言われる人ほど解答のない課題に挑戦できない。

 反対に解答のない課題には最初から挑戦しない。解答の類推できる、解き方が明らかにされている、期限内に解答の可能性がある課題にしか挑戦しない。解答の目途が立たない、得体の知れない、膨大な難問に立ち向かう事はしないし、そんなことをしても、何の成果も得られないし、評価もされない事をしっかりと学習している。最も重要な部分は後者に含まれているが、これに立ち向かっている人は俗に言う「縁の下の力持ち」であり、見えない所で支えている人達であるが、この人達は決してエリートではない。本当に世の中を支えているのは、エリート以外のその他大勢の人達なのである。エリ-トだけでは何もできないし、現実に対処しているのはエリート以外の人達なのである。エリートにできることは、卓抜した知識を駆使してたとえ解答のない課題であっても現段階における最適解を導き出す事である。これができないエリートは使い物にならない。

我々の一番目に付くのが政治の世界であるが、

 今現在の、政治の世界には、解答のない課題に挑戦する人が皆無に見える。特に若い人にその傾向がある。最初から実現不可能だと思っているし、貧乏籤は引きたくないと思っているし、自分の能力では無理だと信じ込んでいる。だから、目の前に立ち塞がっている大きな難問題に自ら挑戦しようとしない。また、本当の最適解を求める努力をせず、目の前の容易な解答に飛びついてしまう。長期的視野で中間目標を決めて、当面の対策を案出するような手法も皆無と言っていい。そして、国民の支持を気にして、簡単で解り易い短期の解決法を提示することに終始している。単純に「右だ左だ」「賛成だ反対だ」「善だ悪だ」「公平だ不公平だ」「平等だ不平等だ」「民主的だ非民主的だ」という思考過程に、本来の問題解決に真面目に取り組んでいるとは到底思えない。本来は二者択一の中間部分にたくさんの最適解があるはずである。そして、徐々に長期間をかけて最良の最適解に近づく努力を継続的にやってゆくべきなのである。

中小企業の職人さん達が宇宙に深海に挑戦している。

 その成り行きを見ていて、科学の最先端を走るべきエリートは何をしているんだと思ってしまう。そのエリートの人達が不甲斐ない。本来は、このような技術を先導するのは科学のエリート集団のはずである。その人達が不在で、職人さん達が立ち上がっている。確かに科学の専門家もバックアップしてはいるが、本来は外側からでなく中心となってやるべきであろう。職人という技術者集団の発想力と実行力に遅れをとっている感じがしてならない。反対に言うと、エリート集団の発想力と実行力が足りないんだろうと思ってしまう。潤沢に国の予算を使って研究開発に取り組んでいる集団、とりわけその中のエリート集団はもう一度気合を入れ直して、考えを改めて、解答のない課題へのさらなる挑戦を期待するし、課題解決へのスピードアップに努めてもらいたい。技術立国NIPPONバンザイ!


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