オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

文明の利器

2007年02月11日 | Weblog

文明の利器は弱者を助ける道具

 自動車にしても、エスカレーターにしても、エレベーターにしても、最初は弱者のためにあったんだと思う。本来人間も自然界では弱者で、体力もないし、速く走れないし、空を飛べないし、水中を泳げない。そう考えると、健常者は歩いたり走ったりすればいいし、階段を昇ればいい。ところが、身体不自由者はそういう訳には行かない。何とかしなければならない。そこから自動車が生まれ、エスカレーターが生まれ、エレベーターが生まれたんだと思う。健常者はその恩恵にあずかっている。

そうは言っても、健常者でも場合によっては文明の利器が必要である。

 物理的に人間の身体能力では実現できない場合は文明の利器を使わざるを得ない。これが現代文明を支え、現代人は文明の利器を日常生活で欠かすことができない状況に陥っている。しかもそれが、物理的な活動の分野から精神的なバーチャルの部分に発展しつつある。現代人は運動能力がおろそかになり、現実感覚をだんだん失って行く。

本来の趣旨に立ち返らなければならない。

 まずは、文明の利器が弱者の道具だと言うことである。それなのに文明の利器を健常者が独占し、弱者から取り上げようとしている。たとえば、高齢者の自動車の運転である。高齢者から運転免許証を取り上げようとしている。本来であれば高齢者でも安全に乗れる自動車を開発して行くべきで、足腰の弱った高齢者こそ自動車を真に必要とすると思う。単なる移動手段としての自動車は高速高性能である必要はない。身体障害者は階段の下りがもっと苦痛だが、エスカレーターは昇りを重視して設置している。健常者主体に考え過ぎではないかと思う。

次に、健常者も本来の趣旨に立ち返らなければならない。

 本来、近距離の移動には、健常者は健康な二本の足を使って、歩いたり、走ったり、昇ったりすべきなのである。文明の利器を使うがために現代人は運動不足に陥っている。そして運動不足で健康を害し体調を崩し運動能力を失っている。もっとおかしいと思っているのは、文明の利器を使っている反対で、運動の時間を設けたり、トレーニングジムに通ったりしている。なんか矛盾している。

町中は運動の格好の場である。

 何もトレーニングジムに行く必要はないし、その時間が勿体ない。生活をしつつ仕事をしつつ運動することが可能であるにもかかわらず安易に文明の利器に頼ってしまう。生活の場には意外と待ち時間がある。この時間を利用すれば相当な運動ができる。座らないで背筋を延ばして立っているだけでも、速足で歩くだけでも、階段の昇り降りでも、そして時間があれば簡単なストレッチや体操でも、ちょっとしたアイソメトリックの運動でもやる気さえあればしっかりとできる。
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