意思決定の理由を聞かれたとき「なんとなく」と答える人が多い。
「なんとなく」の意味を考えてみよう。まずは、自分の意見の整理と分析が不十分なことである。曖昧模糊とした状態で気分的になんとなくそうではないかと判断してしまっているのである。そんな時は本来意思決定をしてはいけないのである。意思決定できないと優柔不断と思われるのと、周囲から意思決定を迫られるため仕方なく結論を出してその理由が「なんとなく」なのである。こういう人達は「私には理由が解りません」と答えるのが妥当である。
次に、周囲の意見に振り回されている時である。
反対意見と賛成意見があって両方が拮抗しているとき、そのような状況で意思決定を求められると、意思決定そのものよりも周囲の状況に目が向いて、どちらが得策かを瞬時に判断して決心するが、特に理由もなく「なんとなく」気分で、もしくは雰囲気でということになる。世間の目が気になるという日本人に最も多いタイプである。こういう人達は「周囲の人達がこういうので」と答えるのが妥当である。
最後が論点に対して無関心なことである。
どちらでもいいし自分には関係ないと思っている場合、無責任に「なんとなく」と答えてしまう。自分を当事者ではなく第三者として位置させて、基本的には論議に参加していないのである。こういう人に意見を求めるのは間違っている。こういう人達は「私には関係ありません」と答えるのが妥当である。
「なんとなく」は明確な回答をごまかしているだけである。
「私には理由が解りません」「周囲の人達がこういうので」「私には関係ありません」と答えたのではバツが悪いので「なんとなく」でごまかしているのである。この「なんとなく」は、一般の個人だけでなく公の報道の中でも多く見られる。なんとなく感じたことをつなぎ合わせてひとつの抽象的な関連事実を作り上げてしまう。最終的にそれが本当なのかと問いただすと「よく解りません」「まだ解っていません」ということになる。本来であればそんな情報は提供してはいけないのであり、前提をはっきりさせて不確かな情報であること、もしくは個人の単なる主観であることを明言しなければならない。これを省略するとこの情報は嘘になる。
「なんとなく」を避けるためには理由を絞ることである。
「あらゆる方向から考えてこうです」と断言することは現実にはあり得ない。「ひとつの考え方から推察してこう思う」というのが妥当であり、これが個々の意見である。このいろいろな観点から考えられた個々の意見を参考にして総合的に「私はこう考える」という判断になる。個々の意見の取り上げ方も総合的な判断の仕方も各人各様でそこにも判断した個人の主観が入る。また最終的に考えた総合的な判断も何かの要素を重視して結論に至っているはずである。よって、正しい理由の述べ方は「私はこのような観点からこのように考えてこう思います」であるべきなのである。
「ジレンマ」という言葉がある。
本来は、大前提に対してそれぞれの小前提で検討して結論に導く手法であるが、小前提の検討でいずれの大前提に対しても否定的である場合、いずれの大前提も否定される。例えば「やってもやらなくても非難されるがやらざるを得ないよっていずれの場合も非難される」ということになるが、このジレンマに陥る場合ははっきり言って小前提の検討が不十分なまま結論を出しているのである。そしてその不十分な結論が新たなジレンマを生んでしまい泥沼にはまって行くことになる。過去と現在の食い違いによるジレンマは過去を正さない限り解消できない。そしてジレンマが生じる根本の原因は自分自身の考えをしっかりと堅持し貫き通さないことである。
日本人には「なんとなく」が多すぎる。
世間の目を気にして、周囲の考え方に合わせようとする風潮が強いため、「私はこのような観点からこのように考えてこう思います」と明確に自分の意見を述べることが憚れるようである。また、このような明確な個人の意見を述べても聞き入れてくれないもしくは軽視される風潮もある。個人の意見よりも組織集団の意見が尊重され組織集団は「なんとなく」に振り回されているような気がしてしょうがない。これは近代的民主主義を根本から破壊する要素にもなりかねない。本当の少数意見が無視される不完全な形態である。
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