昨今の政治を見ていると、結果のみを提示するだけで、
その拠って来る所以や考え方や将来予測を説明する事が少ない。確かに政治決断は政治家が行うし、最終的に決断する権限は政治家集団のトップである内閣総理大臣にある。だからといって、唐突の思いつきのような決断をされても民衆は戸惑うばかりである。そして、納得しないまま追従せざるを得ず、政策の考え方や将来見通しも不明のままである。全体の考え方が漠然として具体的でないのはしょうがないとしても、個別の問題においても考え方が杳として解らないし、説明する事もない。「検討した結果このように決定しました」とアナウンスするのが政治家の仕事であるようである。たぶん、検討段階での全体の考え方と方針さえ示されていないために、最後まで実行される行為の法則が明らかになる事はない。ただ単なる数字(収支)の検討と個別の利害関係の調整と決定事項に対する世論の反論を最小限にすることだけしか頭にない。
「行為の法則」を明らかにするとは、行為に対する「問い」に応えることである。
政治的決断のどこから問いかけても「問い」に対する「答え」が見つからない。ということは、決断に至る過程において「問い」がなされていないのであろう。もしくは、「問い」はなされていても「答え」に至っていないのであろう。だから最終的に「問い」に対する「答え」を自信を持って説明する事ができないし、民衆側も政治的決断の一貫した考え方を類推する事もできないし、当然の如く納得できない。種々雑多な考え方をひとまとめにしたものに「法則」は見当たらない。少なくとも種々雑多のものを選択し精選する時の考え方くらいは存在するはずである。大多数の人が妥協できるような結論には「行為の法則」を見出す事はできない。ただ、自然の流れに任せて放置しているだけに過ぎない。これも一つの考え方ではあるが、この考え方の延長線上にあるのは政治不要論である。すでに、現在の日本の政治に不信感を伴う政治不要論が生まれつつある。
確かに、政治的決断に完全な満点はあり得ない。
現時点における最良策であり、欠点も問題点も包含したまま決断を迫られる。しかしながら、少なくとも50点以上の政策を決断したはずである。その50点を目指した考え方は少なくとも存在するはずである。その考え方は、単なる一過性の思いつきではなく普遍の論理に基づいたものであるべきで、普遍である事によって全体の一貫性が保たれるし、その一貫性が信頼性となり他の政策決定も理解が容易になり、将来予測を見通すことも出来る。そして、もっと大事な事は、決定した政策は常に完全ではない事である。不備な点は改善し修正していかなければならない。このサイクルが完全に近づく唯一の方策である。全てを白紙に戻して最初からやり直すことは、完全に近づいていたものを断念する事に等しく、再度ゼロからのスタートである事を肝に銘ずる必要がある。何かと言うと、全てに反対を唱え、全てをひっくり返して、自分達の存在感と実行力を主張しようとするが、全てをひっくり返し終わった時、日本は崩壊してしまう。彼らが存在感と実行力を主張できるのは、安定した過去の蓄積のお陰である。
企業の品質管理の手法にPDCAがある。
P(Plan)、D(Do)、C(Check)、A(Action)の意味であり、A(Action)の後には、またP(Plan)に繋がり、スパイラルでよりよい結果を目指して常に見直しと改善で向上してゆくし、過去の蓄積の上に現在の位置を獲得し、その延長線上で頂上を目指す考え方だと思う。今の政治はD(Do)とA(Action)が主体で動かされている。P(Plan)において考え方や方針が明確になり、C(Check)で問題点を明らかにし具体的な解決策を見出す。現在の日本の政治に欠落しているのは後者の二つである事は明白なようである。だから考え方が皆目解らないし、何が問題なのかが解らないし、決定された政策に対して問いかけてもこれに答えることが出来ない。結局は今まで積み上げ蓄積されたものの上に新たな改善を実行しているという感覚が欠如しているのだろう。反対に今まで積み上げ蓄積されたものを全否定している感覚がある。それは自己破壊の破滅の道をたどっている気がしてならない。
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