「あんただって昔からちっとも変わりやしないじゃないか。何かあったら絶対ここだ」
ゆるい下りになっている草道を、降りてくる母。羽虫を軽く手で払う時には、記憶の匂い。虫除けのハーブを使った白粉の匂いは、祖母の代からずっと家に伝わる調合のそれだ。
「昔から、って」
ここで母と顔を合わせた記憶はない。不意をつかれて思わず立ち上がっているシオは、泉の淵までやって来た母の真意を測り損ねていた。
「父さんに聞いたの?」
機嫌を損ねる度にシオがここで一人籠ること、父親なら知っていてもおかしくはないと思ったが。
母は、鼻で笑った。それも見慣れた仕草の一つ。
「あの人は、女の痩せ我慢にずかずか踏み込むような男じゃあないよ」
痩せ我慢。
別に痩せ我慢を張って逃げ込んでるわけじゃない。そう反論しかけて、では父は知らないことで、やはり母だけに知られていたということか、と思う。そんな事、一度も考えたりしなかった。娘の機嫌など気にかけるような母ではなかったはずなのに。
「何?ご機嫌伺いにでもきたの?らしくないけど」
訝しんでそう聞いてみたのは、娘っぽい感傷だろうか。
もちろんそんなもの、この母は一笑に付すのだけれど。
「そんっなわけないわ!」
と、ふんぞり返って声を荒げる。
「あんたが後のことも考えずさっさと出ていくから、あの末っ子がまた喚き散らして散々だったじゃないか!」
「ええ?」
その話に感傷も吹き飛ぶのは、母の態度よりも、その『喚き散らす末っ子』の変貌ぶりが余程、シオを、シオと双子たちを怖気させていたからだろうか。
そういえば、ついさっきまでの『シオの結婚』の話題の場で、あまり馴染みないであろう母の暴言に晒されて可哀想だなと思って気にかけたミオは、ただひたすら俯いて表情も見えなかった。それがいつもの妹の様子だったから、すぐに意識の端のほうに流してしまっていたけれど。
あれは、爆発する寸前だったのか。
「ほんっと、なんなのあの子!」
「な、んなの、って」
あなたの娘よ。と反撃できないのは、シオも似たり寄ったりの感想を抱いてしまったというのもあるが。
「言って良いことと悪いことがあるだの、言葉は思いやりがどうだの、それは知性の問題がどうだの、ああ後なんだっけ、社会の存続とか人間関係の上で役割がどうとかこうとか、壊れた賢者の杖みたいな御高説を捲し立てて薄気味悪いたらないわ!」
「薄気味悪い、って…」
言い過ぎよ、と言うシオは、心の中で(とか言いながら、いちいちちゃんと聞いてるのね)と妙なことに気づく。母ならとっととそれを遮って一喝で終わらせてしまうと思ったけど。
自分達はミオとのこれまでの付き合いがあるから、気圧されてしまうのだけど、母からすれば小娘の諫言など痛くも痒くもないだろうに。
「ギャーギャー喚いた後にブルブル真っ青になってんのが薄気味悪いってのよ。大丈夫なのアレ、ほんとに」
狐にでも取り憑かれてんじゃないの、と言い出しそうなそれを遮る。
「大丈夫よ。父さんも言ってたでしょ」
ミオの面倒をよく見て、育てて来たのは父だ。同じように、自分も、双子も育ててもらったのだ。父が大丈夫といえば、それは無条件に安心できる。育ててもらった絆がそうさせる。それがない母には、言葉では足りないのだろう。
(それを選んだのは、母さんでしょう)
ミオの突然の成長も、シオや双子の戸惑いも、父親の見立ても、母とは共有できないもの。それをわずかでも寂しいと思ってしまうのは、やはり小さい子供の感傷だ。大人になった今では感情ではなく、理性で納得できる。ミオのように、感情的に喚き立てることができる幼さなどもうとっくに手放した。だからミオも、いずれそうなる。
それをどうわかってもらおうか、と思案したシオに、母は軽くため息をついてみせた。
「そうじゃないわよ。あの人が、じゃない。今は、あんたと話をしてんのよ」
あんたが見てどうなの、と言われ、自然と「私も大丈夫だと思ってるわよ」と返すことができた。
「へえ?あの子は、自分はまだまだ半人前ですがあ、とか言ってたけど?」
それもよくわかる。ミオなら一生そう言ってるかもしれない。そんな気性の妹だ。昔ならその性根を叩き直してやる、と息巻いていたのだけれど。
「ミオはもう一人前だわ。私がいちいち口出さなくても、あの子は一人でやっていくのよ」
一人前になるまで帰ってくるな、と叩き出した。久しぶりに顔を見せた時は、一人前になる覚悟ができたのでその決意表明を聞いてほしい、と言ってきた。それを聞いて、再び送り出し、今また呼び戻したのが家族会議の場のためであったが。その成長ぶりには驚かされる。家族の誰もが思わぬ方向に成長しているようだが、それも仕方がない。
なぜなら、ミオはもう一人前なのだから。
「もう私の言いつけ通りに冒険者として世界を回ってるんじゃない。あの子の意思で、あの子の目的があって、あの子の仲間がいて、あの子自身の旅をしてるんだもの。私がそれに口を出す必要なんか、どこにもないんだわ」
それを一人前と言わず、なんと言うのか。
まだまだ安心とは言えない。頼もしくなったと言えば嘘になる。双子からすれば、姉さんはミオに甘い!というところだろう。それでも。
「そうかい。それが、あんたの出した答えかい」
「答え、っていうか」
「一人前になれ、っていう課題の答えなわけだ。あの子に対しての」
世間一般に言われるような一人前の定義ではく、ミオに対しての、シオの思い。
「ああ、そう、そうかも、ね」
そう言われると、なるほど確かにミオには甘い点をつけたのかもしれない。なにしろ出発点が恐ろしく低かった。自分達で好き勝手に村をでて自由気ままに生きている双子からすれば、そんなんで良いのか、と不満が出るのも理解できるな、と考えていると。
「じゃあ、あんたもとっととケジメをつけるんだね」
と言われて、不意をつかれる。
「ケジメ?」
何のための、と疑問に母は容赦なくいった。
「ミオは一人前になった。なら、あんたは結婚するんだね。明日にでも」
「はあ?明日?!結婚?!あたしが!??」
「ああ、明日は無理だ。こっちにも準備ってもんがあったわ。まあこっちの用意が整う程度には、さっさと日取りを決めてしまってよ」
「ちょっと待ってよ、私まだ何も」
「何悠長なこと言ってるんだか。あんたが言い続けてきたんだろう?結婚の申し込みがある度、そう言って断ってた、って双子は言ってたわよ」
あれ、双子の嘘なの?と言われて、嘘は言ってないけど、と返すのには歯切れが悪い。
シオの結婚を、ケジメ、と言った母の真意がそうさせる。
「母さんは、だから、なの?」
自分がミオの世話に口を出すから母は嫌気がさして家を出たと言いたいのか、と口にした時はその可能性に一瞬、心が冷えたのも事実だ。
それを無かったことにしたのは、いつもの母の口癖。
あたしはあたしのやりたいようにやるのよ。
どうしようもない母のセリフだが、あの瞬間シオの心は、確かに母のこの言葉で救われたのだ。
だからこそ、ミオが一人前になるまで結婚はしない、と宣言するシオの生き様を『ダサい』と罵ったあの一幕さえも、今では受ける重みが違う。シオの為でなく、あれはミオの為か。自分のせいで姉が結婚しないと宣言している、そんな噂が実しやかに出回っている村で育ってきたミオの気持ちを考えたのか。
面影もありはしない母親に暴言を吐かれて気の毒に、なんて気遣うのとはまるで違うやり方で、母は母なりにミオを娘と思っているのかもしれない。
そう気付けば、いつもいつも、そうして守ってもらっていたのか、と思う。
シオには理解できない。理不尽な態度も、呆れる言動も、すれ違う心も、母の真意は何も伝わってこない長い時間だったけれど。
「実は母さんなりに何かを思ってのことなの?」
と問えば、母は鼻で笑う。いつものように。
「あたしを美化したいのなら、すればいいわね。自分の理解の良いように他人を解釈するなんてのは、頭の悪い人間のする事だと思うけど」
自分の常識が丸っと当てはまる人間がいるもんか、と笑われて口を尖らせる。
「せっかく見直したところだったのに」
「見直してくれなくて結構。娘からの評価が欲しくて親をやってるんじゃないんだわ」
やらされてんのよ、と言われて絶句する。それは想定外もすぎる。と、シオの沈黙で間があいたことに気づいた母が、やや苦笑して見せた。
「ま、親になるつもりなんかなかったからねえ」
「だからって」
「親としての全責任は自分が持つ、って言ったのがあの人だからさ。じゃあたしは無責任を極めてみるか、って思っちゃったじゃない?」
「思っちゃったじゃない?って言われても」
やばい。母らしいと思っちゃったじゃない?だ。
「だからあたしは母親として、らしい助言なんかできないわけよ。そのつもりもないけど。あたしに言えるのは、村の女としての言葉だけよ。このあたしの娘として名乗り、双子と末っ子の姉として宣言をしたんだったら、きっちりケジメをつけて結婚しなさい」
逃げは許さない、という母からの真正面の言葉。
「あ、そうそう、男と添い遂げた女として、結婚に対しての助言なら言えるわね」
母親として立派なことは言えないけれど、数々の男と浮名を流した先輩の言葉よ。と、皮肉たっぷりに笑って見せて、その顔は母親としての顔だった。
「この人となら分かり合える、なんて男とは結婚しないことね」
この男とは一生分かり合えない、そう思った時に、それが一生続くなんて面白い、と思える男だったなら、良いわ。そういう人と結婚しなさいよ。
母から娘に、たった一度だけ。
後にも先にもただ一度。今この時だけよ、と。
それは、幼いシオが憧れ続け、今まで目指し続けてきた母からの。贈り物、だった。