夏の午後。
(ああもう!腹立たしいったら!!)
といった内心の声がだだ漏れの様な乱暴な打ち水をぶちかましたシオは、水桶を納屋に仕舞って、そのまま家には帰らず、少し歩いた先にある泉へ戻った。
木の板で作られた足場は何の不安もなく、慣れた仕草でスカートの裾を捲り上げてしゃがみ込む。前のめりになって、両手を泉に浸す。
小さいながらも湧水を湛えている泉は年中、冷たい。
手の平から冷えていくそれはそのまま、熱った心も冷ましていくのが昔からの。
(落ち着け私。何も今に始まった事じゃない。昔からそうじゃないの。あんなこともこんなことも、全部)
シオが手を浸したことで波立っていた泉の表面が、徐々に落ち着きを取り戻し、平らかになっていくのを見つめながら、今も家で好き勝手なことを言い合っているであろう家族のことを思う。
(そうそう、あの人たちは本当に自分勝手なだけで悪気があるわけでは…)
そう余裕の笑みさえ浮かべようとして、
(いいえ、悪気しかないんだわ!!)
と、再び心の水面に大岩を投げ込んでくる家族の面影に負けて、苛立ちのまま泉の水を両手でかき混ぜた。
昔ならそのあたりにある石や木の枝を手当たり次第投げ込んでいたものだ。
荒れた気分のままに泉の平穏を乱し、濁っていく水を見ながら肩で息をするくらい荒れていた心が鎮まった暁には、家まで熊手を取りに戻り、自分で投げ込んだ木の枝や落ち葉や土塊などを自分で掃除して戻るのが几帳面すぎるシオの性分だった。
(馬鹿みたいよ)
全く自分でもそう思う。
再び荒れた水面が静まっていくのを待つ間。
今日の荒れた原因にため息を一つ。
始まりは、昼食が済んだ後の母の一言だった。
「そういや、あんた、いつ結婚すんのよ?相手待たせてんだって?」
それに返したのは
「はああ?!」
だった。
あまりにも脈絡がなかったというのもあったが、言いたいことは色々ありすぎて、どれに絞って抗議したものやら、感情が追いつかなかったというのもある。
なんという無神経!
年頃の娘に対して話題にする時はもっと周囲に気をつかってよ!普段ででさえ結婚にうるさい双子とその話をするとじめじめ鬱陶しい末っ子がいる前でする話じゃないでしょうよ!
ていうかなんで相手がいること知ってるのよ!あたしあれが結婚相手だ、とか誰にも言ってないし!いや、別に思ってもないし!!あ!父さん?!父さんが勝手に喋ってんの?!まさか、この人だよとか紹介してないでしょうね?!ちょっとやめてよ!本人のいないところで外堀埋めるような真似許されるわけないでしょうよ!!私にも意思ってものがあるのよ?!
という感情が凝縮された、「はああ?!」だったのだ。
案の定、「もっと言ってよ母さん!!」と双子はノリに乗って騒ぎ、末っ子はその場にいるのが居た堪れないと全身で表明しながらオタオタするばかり。
「それがさ!姉さんはさ、ミオが一人前になるまでは結婚しない、とか言っちゃってさ!」
「ミソ子が一人前になる頃には老婆になってるわよ」
「今までに散々結婚申し込まれてんのに、その一点張りで全員ふってんの!信じられる?」
「ものすごい優良物件なんか山ほどあったのに今じゃ全員他の女のものよ」
そう捲し立てる双子の話を聞いていた母の放った一言は、酷かった。
「うわ、だっさ!!」
心底から吐き出されたそれにはその場が凍りついた。
父は午後からの商談とやらでその場にいなかったからまだ良かったかもしれない。
いたからと言って何がどうなるとも思えないが、まあ場が良くなることはないだろうと思える。
「いや、えっとー、母さん?」
「あー、姉さんもそこそこ真面目がすぎるだけで、ね?」
実の娘にあんなこと真顔で言える?!
という衝撃は、ここぞとばかり母に悪ノリする双子たちにさえも共通の思いだったらしい。
しかしそれすらも最強最悪の母にはどこ吹く風。
「真面目とか行き遅れとかどうでも良いわ。あたしは、自分の人生設計を他者に委ねてるあんたの、それが、ダサいって言ってるんだわ」
「別に他者に委ねてるわけじゃないわ、私は姉として」
と努めて冷静に返そうとして、はたと現実に立ち返る。ちょっと待て。どの口がそれを言うのか。
「そもそも母さんが!ミオの事をほったらかして出ていきっぱなしで帰ってこないから!私が代わりにそれをやってるんでしょうが!」
「へえーぇ?じゃああんたはあたしがミオの育児につきっきりだったら、好き放題村を出て行ってとっくにいい男掴まえてどこともしれぬ場所で豪遊三昧やってたってわけかい」
「それは」
「あー、それはないなー」
「そうね、そんな姉さんはちょっと想像できないわー」
その可能性を考えるより先に双子に決めつけられて、それはそれで腹が立つ。
「ちょっと、勝手に決めつけないでよ!」
あんたたちどっちの味方なのよ!の意。
だが双子は平然と言って退ける。
「だって姉さんが母さんの超!テキトー育児を黙ってほっとけるわけないじゃん」
「そうよ、ちょっとでもやり方がまずかったら絶対口出しするに決まってるわ」
「母さんは絶対荒いっつーか雑いっつーかいい加減っつーか、そんなんだし」
「むしろ一から十まで口出しして母さんが辟易して出ていくまであるでしょ」
そう言い合って、二人で納得したように、「あー」と頷き合うのを見て不快度は増した。
「何よそれ、私のせいで母さんはミオをほったらかしたって言いたいわけ?」
それではまるで、シオが母親を家から追い出し、ミオから母親を遠ざけたみたいな。
そんな。
現実だったとしたら。
「言わないわよ」
その場の空気に、ズシリと響く声。
シオを真正面から見据えて、遥か高みから言い聞かせるようなそれは、昔から変わらない、母の態度。母の。強者の、それ。
「あたしはあたしが好きで村を出て、好きなだけ彷徨いてたんだ。ミオのオムツ変えなんかより、外の世界で暴れる方がよっぽど面白いし、好き勝手できるし、最高だったわね」
「ちょっと、やめてよ」
ミオの前で言う事じゃないでしょ。と、シオは視界の端で、ただ俯いている妹を気遣ったが。
「そんなことはどうでもいいんだよ!あたしはあんたが結婚するつもりがあるのかどうかが聞きたいだけなんだから」
結局そこかよ!!
「あ、そうだったそうだった」
「若い男なの?姉さんより年上?あ、まさか父さんくらい歳行ってるとか?」
「ああ、うん、姉さんはファザコンだからなー。あってもおかしくない」
「やだー、あたし父さんみたいな義兄さんと仲良くできるかしら?複雑ー」
仲良くしなくて良いわ!そもそも父親ほどの男なんか選ばないわ!ていうか、それ父さんにも失礼でしょうが!何言わせんのよ!!と口を挟めないままに母と双子の悪ノリは続けられて。
「なんだい、あんたたちも相手を知らなかったっての?」
「身持ち硬い女は口も硬いんだよ」
「華やかだったのは昔だけで、ここ数年は子育て終わった熟年女みたいな落ち着きぶりだわよ?」
「うちらだってミオが一人前になるなんて思わなかったもんだから、姉さんとミオはもう一蓮托生なんだわ、って諦めてたからねえ」
「そうなると私たち、とぼけた舅と口うるさい小姑と泣き明かす小姑がいる家に婿を呼ぶわけよ。なかなか壮絶よねえ」
「それが村中に知れ渡ってるから、どんな物好きが来るのやら、って面白おかしく噂される身にもなって欲しいわー」
馬鹿馬鹿しくて付き合ってられない。
もう言いたいだけ言わせておけばいい。どうせ分かり合えない人種だ。
「ああもう、わかりました!それがあんたたちだってのよ、よく知ってるわ」
あの双子は君に構って欲しくて戯れているだけでしょ、というのは父の言葉。
もちろんシオだってわかっている。わかっているが、いつまでも戯れあいを続ける義理はない。家族とはいえ。
「私は私の家族を持つ時はこの家をでるから。私の夫と仲良くできるかどうか過剰に心配しなくてもそこそこ常識的に付き合ってくれれば良いし、小姑はいなくなったから好きなだけ婿を掴まえてお互いの婿同士が仲良くやれるかどうかと、家の保全の心配だけすると良いわ!」
はいどうも!!との捨て台詞を吐いて、この話はこれで終わりです、と言わんばかりに家を出てきたのがついさっきの事。
冷静になってみると、捨て台詞を吐いているにもかかわらず、双子には親戚付き合いの常識と家を持つことの覚悟を促しているのがさすがクソ真面目な長女の性分というのが悲しい。
(こんなだから)
ダメなのかしら?と、水面から両手で水を掬い上げてしばらくそれを持て余した。
手の平から滴り落ちる雫が水面を揺らしている。
ダメなんてことがあるか?シオはシオだ。自分がそう生きてきたことを自分で否定するなんて、それ以外に生きられる道を夢見てしまうのと同じことではないか。
ぼんやりとそんな事を思った時、背後から人の気配が近づいているのに気づいた。
振り返れば、それはやはり母だった。
昔から、ちっとも変わらない。
シオの手に余る、母だ。